牛島の民話 丑森明神について |
むかしむかし、牛島に甚兵衛という情け深い人が住んでいた。田んぼから牛をひいて帰ると、必ず海へ連れていって洗ってやり、そして「ほんとにご苦労じやったのう。
よう働いてくれた。明日もまた頼むでよ」とねぎらいの言葉をかけるのが常であった。
ある日のこと、甚兵衛はいつものように牛を田んぼから牽いて帰ると、すぐに海へ連れて行った。
その日の仕事は平目の倍以上もあったので、甚兵衛は特別に念を入れて洗ってやり、「よう働いてくれて、ほんとに有り難うよ。明日からはゆっくりさせてやるからな」と、いたわりながら足腰をていねいにこすってやり、「さあヽ早ういんで、メシにするかのう」と、牛の手綱をとって浜から上がろうとしたが、その日に限って牛はどうしても甚兵衛のいうことをきかず、何度やっても四本の足を海中にふんばって動こうとしない。 そこへ折よく島の若い衆が通りかかり、すぐに海へはいって沖から牛を追いあげてくれたので、甚兵衛はほっとして家に帰った。
その夜のことである。甚兵衛は真夜中に体が焼けるように熱いのに驚いて飛び起きてみると家が盛んに燃えている。
火の回りが早くて家財道具を運び出すひまもなく、急いで牛小屋へ行ってみると、牛もすでに焼け死んでいた。
「あのとき海から上がろうとしなかったのは、こうなる予感があったからかな。ほんとに可哀相なことをしたもんだ」と、甚兵衛はまるでわが子を焼け死なせたように嘆き悲しむのであった。
それから数年が経過した。
ある目、畑仕事をしていた甚兵衛がふと空を見上げると、死んだ牛の形をした黒雲が島の上にゆっくりとおおいかぶさってきた。
「こりゃ、大変じゃ。」甚兵衛はそう叫んで急いで村へ帰り、「村のし、大変じゃど。今夜は火の用心をせんさいよI」と注意して回ったが、村の人たちは甚兵衛が気でもふれたのかと、ただ笑って別に気にとめるものもなかった。
ところが、その夜のことである。どこから出たともわからない火のために、島はまる焼け同様になってしまった。
こうした不審火がその後も数回つづいたので、いつのまにか「こりゃァ甚兵衛さんとこの、焼け死んだ牛の崇りじゃ」という噂が起こり、そのうちに誰がいい出したともなく、「村で牛の供養墓を立ててやろう」ということになり、話はすぐにまとまって共同墓地のなかにその牛の墓が建てられ、墓石には 「うしもり明神」と刻まれた。
これからのち島には火事らしい火事はなくなったという。
光市史 昭和50年3月31日発行
山口県光市牛島の場所
「火事を知らせる牛」のイラスト(秋の夜間庭園冠山総合公園で屋外展示) |