..
..
..
..
柳井の地名発祥の由来について |
柳井の地名発祥の湘江庵の「柳と井戸」
今から約千四百年の昔豊後の国(大分県)満野(まんの)長者の娘般若姫は橘豊日皇子
(たちばなのとよひめのみこと)(後の用明 天皇)に召されて海路を上京の途中ヽこの地
に上陸して水を求められました。
姫はこのとき差し上げた清水がたいへんおいしかったので、そのお礼に、だいじにもっ
ておられた不老長寿の楊枝を井戸のそばにさされると、不思議にもそれが一夜にして芽を
出し、やがて大きな柳の木になったと伝えられています。
「柳井」の地名は、この柳と井 戸の伝説によって付けられたそうで、この霊水を飲む
と長寿が保て般若姫のように美しくなるといわれています。
湘江庵内に向かって左側に日本三大虚空蔵菩薩のうちの一体のある御堂、向かって右側に
「大友大権現」の分院があります。
山口県柳井市新町 湘江庵の場所
山口県柳井市新町 湘江庵のスナップ写真 |
日本三大虚空蔵菩薩のうちの一体のある御堂
正面に向かって左側の御堂には平安末期に作られた十一面観音菩薩があり、
さらにその左側の仏像は日本三大虚空蔵菩薩のうちの一体である。
日本三体の虚空蔵菩薩
虚空蔵菩薩は、限りない慈悲を現わす仏様といわれ『岩邑志』に
「すべて柳井津という所には、必ず虚空蔵おわす」とあります。
それは、
○ここ柳井津の虚空蔵と
○福島県河沼郡 柳津町の福満虚空蔵
O宮城県本吉郡津山町柳津の福智満虚空蔵
でヽこれが日本三大虚空蔵菩薩といわれています。現在鎮座の以前
の仏像は、古い記録によりますと柳井か片野の常楽寺からお移しした
ものだったそうです。
日本三大虚空蔵菩薩のうちの一体
「大友大権現」の分院
大友大権現の由来について
大島町屋代の大野家はヽ五千七百石を領していた次男友之丞という美丈夫はヽ文武両道 の達人でヽどんな権威をも恐れぬ豪勇の士てあった。 やがて友之承一は京都御所に入り ヽ北面の武士にとりたでられ、忠勤をはげむうち見込まれて巡見使どなり九州に下る途次 、三田尻の毛利家に立ち寄り、朝廷をかさにきて大いに見返してやったがヽ大乱暴をはたら いて足どめされた。友之承一は脱走して郷里屋代に帰った。しかし一族のものは、禍いが及ぶ のを恐れ、喜んでは迎えてくれなかった。 彼は見切りをつけて祝島に渡り、寺に身を寄せ、手習いの師匠となり、人々は喜んでその 教えを受けた。このことを知った毛利家は、捕手を向けたが、あまりにも強い友之丞を捕 リおさえることはできなかった。 しかし、友之承は、捕手の哀願を入れてつかまえられてやろうと言って神妙に両手を出した。 毛利家では、丈武の達人だから殺すにしのびず一族からの嘆願を待ったが、誰一人として 助命を願い出る者がないので、ついにこれを斬罪に処した。 時に完政十一年三月二十八日、友之丞は四十二才であった。法名を「竹林軒真寅賢道居士Lという。 首は屋代に送られヽ大野家累代の墓に葬られた。友之永一は死にのぞんで「色分は大志を抱 きながら信を失って、このようなむごい最後をとげるがヽもし死後自分を信じて祈る者があ るなら、首から上の病気は必らず癒しってやると言ったというこのことを伝え聞いたに人々はヽ 墓へ詣でて病の平癒を祈った。霊験あらだかな評判が高くなったその墓には、線香の煙が絶えなかった。 その徒墓を雨露から守るため、屋代の龍心寺境内に小屋が建てられ「大友大権現」とあが められており、この小屋はその分院である。
TOPページ