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山口県山口市香山町7-1 瑠璃光寺五重塔の紹介 2011-5-15  





山口県山口市香山町7-1
瑠璃光寺五重塔の紹介
  2011-5-15 

   瑠璃光寺(るりこうじ)について 

 瑠璃光寺(るりこうじ)は、山口県山口市香山町にある曹洞宗の寺院。
 山号は保寧山、本尊は薬師如来。
 国宝の五重塔を中心として、境内は香山公園と呼ばれ、桜や梅の名所にもなっている。
 大内氏全盛期の大内文化を伝える寺院であり、「西の京・山口」を代表する観光名所となっている。
 香山墓所は「毛利家墓所」のうちの一つとして国の史跡に指定されている。
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  瑠璃光寺の歴史について 

「香積寺」
 室町時代、大内氏25代の大内義弘が現在の場所に香積寺を建立したが、 義弘は応永6年
(1399年)に応永の乱を起こし足利義満に敗れて戦死する。
 義弘の弟である26代大内盛見が兄を弔うためここに五重塔の建設を開始したが、 盛見自
身も九州の少弐氏・大友氏との戦いで永享3年(1431年)に戦死する。五重塔はその後嘉吉
2年(1442年)頃に完成した。
「保瑠璃光寺」
 陶氏の7代当主陶弘房の死後、弘房の夫人が夫を弔うために文明3年(1471年)建立した。
 当初は安養寺と呼ばれ、現在の山口市仁保高野にあったが、明応元年(1492年)に瑠璃光
寺と改められた。
「移転」
 江戸幕府成立後、萩に依った毛利輝元が慶長9年(1604年)に香積寺を萩に引寺したため、
跡地に元禄3年(1690年)、仁保瑠璃光寺を移転した。これが現在の瑠璃光寺である。
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  瑠璃光寺五重塔 について 

 国宝。大内文化の最高傑作といわれる。
室町時代、嘉吉2年(1442年)頃の建立。屋外にある五重塔としては日本で10番目に古く、 京
都の醍醐寺・奈良の法隆寺のものとならび日本三名塔の一つに数えられることもある。
 高さ 31.2m で屋根は檜皮葺。
 二層にのみ回縁(まわりえん)がついているのが特徴である。
 建築様式は和様であるが、回縁勾欄の逆蓮頭や円形須弥壇など一部に禅宗様(唐様)が採
り入れられている。
 夜間は年間を通して日没〜23:00までライトアップされており、周囲に咲く季節の花々ととも
に美しく浮かび上がる。
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 山口県山口市香山町瑠璃光寺五重塔の場所


山口県庁の近くである。

               

 瑠璃光寺の配置図






  瑠璃光寺のスナップ写真



寺号碑
 


瑠璃光寺五重塔。
奈良の法隆寺、京都の醍醐寺と並んで、
日本の三名塔の一つである。
檜皮葺(ひわだぶき)でとても女性的な優美な塔。












若山牧水歌碑 


















 国宝。大内文化の最高傑作といわれる。
室町時代、嘉吉2年(1442年)頃の建立





満月の庭







24代大内弘世銅像
 

瑠璃光寺資料館
五重塔の模型や資料を展示している。
また日本にある主要な五重塔55基を100分の1の模型
とパネルで紹介しており、
各地の五重塔について知ることができる。
 


 

山門

 

  金毘羅様




本堂


  慈母観音


身代り地蔵


本堂







山門


放生池
















                 雪舟像
 雪舟は応永27年(1420)に備中の国に生まれた。
 長じて僧となり京都の相国寺には入って禅学とともに画技 学んだ。
 その後40際前後に山口に来て天花の雲谷庵に居を定め 画筆に親しんだ。
 応仁元年(1467)大内氏の遣明船にのって中国に渡り絵の修行に励むと同時に中国の
風物に接した。
 文明3年(1499)日本に帰った雪舟は山口に居住していたがその後漂白の旅に出て再び山
口に戻ったのは文明18年(1486)頃と思われ雲国庵をアトリエとして多くの傑作を残して
いる。
 有名な国宝(四季山水図)この年に 描いている。以後雪舟はあまり漂白することもなく
 主として山口で製作を続けていたものと思われる。
 雪舟の没年場所については永正3年(1506)86才で雲谷庵で没したというのが定説となって
いる。
 雲谷庵はこの向こうの山裾に跡が残っている。」雪舟は朝な夕なそこから五重塔を眺め山
口の美しさを感じたこてであろう。
説明板転記











駐車場







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