漢陽寺の沿革について |
臨済宗鹿苑山漢陽寺は、大本山南禅寺別格地として山口県下屈指の名刹であり、論旨をもっ て十刹の地に任ぜられた尊い寺歴を嗣いでいる。
開基は、応安七年(約六百年前)、中国筋を一手に掌握した大名大内家二十六代当主、左京大 夫盛見公で、開祖は室町時代の名僧、用堂明機禅師である。
本堂御本尊には、釈迦如来、脇侍かしょう尊者、あなん尊者。仏殿には、聖観音像、脇侍不動 明王、毘沙門天王を安置する。
この他、往古より伝わる名宝も丁重に保存され、名庭と共に中国地方きっての名刹としての歴史を示している。受付で頂いたパンフレット要約
平成の名水百選 潮音洞、清流通りについて
環境省は、木環境保全の一層の推進を図ることを目的に、地域の生活に溶け込んでいる。
青燈な水や水環境のなかで・特に・地域住民等による主体的かつ持続的な水環境の保全活動が行われているのを、 昭和60年に選定した「名水百選」に加え、新たな名水「平成の名水百選」の選定を行い、「潮音洞、揖流通り」が平成20年6月25日に認定された。
1.名称及び形旋
名水名:潮音洞、清流通り
種 別:用水
2.潮音洞、清流通り
潮音洞は、錦川支流渋川から用水を取り入れるかんがい用隧道であり、県指定文化財となっている。
漢陽寺本堂裏の隧道から流れ出る水は、境内の日本庭園を形成する水流となったのち、清流通り沿いを流れ、 下流の農業用木、防火用水として用いられている。
この水は、漢陽春において、静的な日本庭園に動的な彩りを与えるとともに、清流通り(延長545m)においては、 水を利用した人の営みを伝える。 水車や、四季の移り変わりを感じられる。巨木群やしだれ桜が一体となった景観を形成しており、水を中心として自然・文化、 そして住民の生活が一体となった散策スポットとなっている。
また、民間、行政がそれぞれ保全活動を行っており豊かな環境を保全している。
案内板転記
第15番札所 臨済宗南禅寺派別格地鹿苑山漢陽寺
漢陽寺は中国自動車道・鹿野ICから直ぐの所に位置する。寺裏山の潮音洞(ちょうおんどう)より流れ出る遺り水を活かし、 古庭園を模して築庭された閑雅な雰囲気の『曲水の庭』に代表される様々なタイプの庭園(蓬莱山(ほうらいさん) 池庭、九山八海の庭、地蔵遊化の庭など)と、精進料理が好評を得て名を馳せ、今では訪れる人も多く、 マスコミに紹介されることも再々の有名寺である。
漢陽寺開山の用堂明機禅師は、当時名僧の誉れ高く、応安7年(1374年)大内氏26代当主・盛見 (もりはる)が禅師を招いて開山した。
用堂明機禅師は唐に渡り、杭州の竺源遠禅師について11年余の長きにわたって学び仏道を究めた。
帰国後、中国地方一帯の権力者・大内弘世の篤い帰依を得る。弘世公亡き後、弘世の四男・盛見が父の遺志を継ぎ、 伽藍を創建し禅師を招いて開山、大内家の祈願寺とした。
漢陽寺は南禅寺派の別格地である。
漢陽寺開山当時の臨済宗は、室町幕府が鎌倉と京都にそれぞれ五山十刹(じっせつ)の制度を設けており、 京都五山は貴族が疵護していた。
五山はいずれもその下に十刹と呼ばれる寺院をもち、住職は代々、幕府の命によって任じられた。
南禅寺は、その五山の上に位置し別格の扱いを受けていた。
漢陽寺がその南禅寺派の別格地であったのも、名僧といわれた用堂明機禅師の御徳と高名によるところと思われる。
中国観音霊場ホームページ
山口県周南市大字鹿野上臨済宗鹿苑山漢陽寺の場所
漢陽寺の境内指定文化財案内図 |
臨済宗鹿苑山漢陽寺のスナップ写真 |
法堂
市指定文化財
木造地蔵菩薩立像
木造十一面観世音菩薩坐像
法堂
市指定文化財
木造十一面観世音菩薩坐像
鎌倉時代に作られたと思われる像である。
中山観音堂洪鐘鋳替勧進帳写によれば、
延暦寺三代慈覚大師の作とされている。
法堂
市指定文化財
木造地蔵菩薩立像
藤原時代に作られた、ヒノキの一木造りの像である。
「沓(くつ)をはくお地蔵さん」として、古くから親しまれている