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山口県光市島田3丁目 鬼彦兵衛の墓紹介  2011-2-6  





山口県光市島田3丁目  
 鬼彦兵衛の墓紹介
 2011-2-6 
鬼彦兵衛の墓の場所


光市民ホールから近い場所である


  鬼彦兵衛の墓について

 宮ノ尾の日限地蔵院へあがる南側参道の石垣の上に、高さ約1.2mの自然石がある。
 これを鬼彦兵衛の墓と伝えている。鬼彦兵衛の物語は島田の民話で、力持ちになりたいと思い紀州熊野の権現様で難行苦行のすえ、 ついに千人力の力を授かったという。
 鬼彦兵衛は島田に帰る時、熊野権現の御神体を勧請してきた。
 これが十二社権現の由来という。
 この墓は、力持ちになる霊験あらたかなものとして、参詣者が多かったという。
[ひかりアメニティふれあいマップガイド]



  鬼彦兵衛の民話


 むか〜し、むかし、山口県は島田の宮ノ尾というところに、とても力の強い男がいて、人々から、鬼彦兵衛と呼ばれていた。
 彦兵衛は子供のころから、体が他の子より大きく、見た目にも強そうであった。
 だが、本当は見かけによらない優しい子で、他の子にいじめられても、大人から馬鹿にされても、腹をたてることなどなかった。
 ただ、野原に咲いている花を集めたり、山の小鳥に口笛で呼び掛けたりして、静かに遊んでいた。
 力も弱く、仲間と相撲をとっても、すぐにバタンと転がされていた。
 彦兵衛は「わしも、もうちょっと力が強けりゃあ、うちの仕事でも、村の仕事でも、なんぼでもやれるのに。
 それに、弱い人を助けることもできるんじゃが。どうにかして、力の強うなれる方法はないもんじゃろうか」 と、思い込むようになっていた。
 力は弱くて、心の優しい彦兵衛が、大人になりかけた頃のある日、ひどい地震か台風かで、山の大きな石が転がって、村のお宮に落ちたことがあった。
 その石はたいそう大きくて、村の人達が集まって、押したり引いたりしてもびくともしなかった。
 みんなが腕組みをして、黙って石を眺めているところに、一人の旅人が通りかかった。
 旅人は、村人達のようすを見て、訳を聞き、「わしが、その石をどけてしんぜよう」と、言って、ひょいと手をかけ、軽々とその大石を動かしてしまった。
 みんなは驚いて、ぽかんと口をあけているばかりだったが、彦兵衛一人は「自分も、せめてこの人の何分の一かの力でもついたら、このように人々が難儀をしている時でも、手助けすることができるのに」 とじっと考えこんだ。
彦兵衛は、決心して旅人のところへ行くと「さっきから、あなたの力が強いのを、よく見せてもらいました。
 わしは、こんなに五体は大きゅうても、力が弱いけえ、役立たずでつまりません。
 どうしたら、あなたのように力が強うなるか、どうぞ教えてくださりませ」と、頼んだ。
 旅人は、「あんたが、そんなにいうのなら、わしの言うことをしてみなさるとええ。
 ここから東に向けて、どんどん歩いて行くと、紀州という国があって、そこに熊野ちゅうところがある。
 そこの権現様に、力を強うしてくだされいと、願をかけて、修行するとええ。
 じゃが、その修行ちゅうのが、夏の暑い日、山道を裸足で百回も上り下りして祈ったり、冬の寒い日、滝に打たれて念じたり、少々の辛さじゃあないから、よっぽどの覚悟がなけりゃ、たやすくはつとまらんでの」 と、話してくれた。
 これを聞いた彦兵衛は、すっかり喜んで、「どうでも気張って、修行してこよう。そうして力が強うなったら、村の人のためにも働くことができる。
 今までのように、歯痒いこともないようになる」と、思った。
 そして、父親と母親に後のことを頼んで、熊野に向けて出発した。
 まだ力の弱い彦兵衛の一人旅は、寂しく、心細いものだったが、『熊野へ行きさえしたなら』と、一生懸命思い続けてやっと着いた。
 そして、もうその日から、修行の仕方を教えてもらい、汗の流れ落ちる夏の日も、手足が凍る冬の日も、じっと我慢をして、彦兵衛は修行に取り組んだ。
 毎日毎日、どんなことがあろうと、修行を休むことはできない。
 彦兵衛の大きな体も、縮んできたかと思われるほどだった。
 何年もかかって、やっと神様から、「よう熱心に、修行したのう」と、言われ、百人力をつけてもらった。
 彦兵衛は、「これで、わしも村に帰って、村の衆のために働けます。どうもありがとうございました」と、丁寧にお礼を言った。
 彦兵衛は、一人になって、今までの修行のことを、いろいろ思い返していた。
 その時ふと、「このありがたい神様を、島田にも分けてもろうたら、村の者もどれだけ喜ぶことじゃろう」と、思いついた。
 そこで、神様を分けてくれるように頼んでみたが、熊野の人達は、神様を分けると、ありがたさがそれだけ減ると考えて、許してくれなかった。
 しかし、彦兵衛は、どうしてもあきらめることができなかった。
 その夜、心を決めた彦兵衛は、かってに神様を分けて、しっかり背中にくくりつけ、そっと熊野を出発することにした。
 だがやはり、神様を守っている人達に、気づかれてしまった。
 追って来る姿を見た彦兵衛は、必死で逃げ始めた。
 熊野の人達も、一生懸命追いかけて来た。
 困ったことに、力の強くなった彦兵衛の足は、道の土に、すぽっすぽっと沈みこんでしまう。
 それでも、やっと島田の近くまでたどり着いたが、そこでとうとう追いつかれてしまった。
 彦兵衛は、仕方なく、持っていた杖を振り回した。
 追って来た者の中で、八人ほどは、力の強い彦兵衛の杖にちょっと当たっただけで、命を落とした。
 それを見て、熊野の人達は、もう仕方がないと諦めて帰って行った。
 彦兵衛は、のちに、そこへ祠を建てて、亡くなった人達を慰めた。
 そこは、八人が往生した(死んだ)ところなので、「八おうじ」と、いった。
 のちの人は「八王子」と、書くようになった。(東京都ではない)
 そこから少し帰ると、もう夜明けが近くなったとみえて、鶏が時を告げた。
 鶏の声が聞こえたところを「とりごえ」と、いい、「鳥越」と、書くようになった。
 また少し帰って、そこで夜が明けた。
 「明け道」が、いつの間にか「赤道」と、書かれるようになった。
 やっと島田の宮ノ尾まで帰り着いた彦兵衛は、今までのことを近くの人に話して聞かせた。
 彦兵衛が、そこにある石臼をひょいと持ち上げたりするのを見た村の人達は、「これがあの彦兵衛だろうか」と、目を丸くして驚き、さっそくお宮に熊野の神様をお祀りした。
 それからの彦兵衛は、島田川に大水が出て、堤防が破れそうになると、土を俵に入れてはぽんぽん投げて、大水をくい止めた。
 小さな川には、長い石を渡して橋にした。
 秋には、米の入った俵を、一人で一度に何十俵も運んだ。
 火事の時には、酒を作る大きな樽で、堤の水をザブンとかけて、一回で消した。
 水争いの時など、彦兵衛が間に割って入ると、喧嘩も自然におさまったりして、人々から「鬼彦兵衛」「鬼彦兵衛」と、言われて、ますますありがたく思われるようになった。
 「鬼」というのは、特別な力を持った人という意味であった。
 鬼の彦兵衛は、急ぐ時は山を一つずつ跳んで走ったが、島田の山には、その時ついた「鬼彦兵衛の足跡」のある岩が残っている。
 鬼彦兵衛が、悪者と戦う時に投げた石も残っているが、その石は普通の大人では陰に隠れて見えなくなってしまうぐらいの大きさである。
 人々から慕われた鬼彦兵衛も、だんだん年をとった。
 ある日、山から大きな石を背おって帰り、「わしが死んだら、これを墓にしてくれ」と、頼んだ。
 今でも、その「鬼彦兵衛の墓」というのが残っているが、その傍らにある細長い石は、その時鬼彦兵衛が、杖の代わりについておりた石だと言われている…
[昔々物語館ホームページ]


自然石で文字は彫られていない。
鬼彦兵衛が、杖の代わりについておりた石だと言われている



 



下に見える国道にこれより30mの看板がある。
意外に見つけにくい。













熊野神社
『防長風土注進案』に記載された社伝によると、
奈良時代の和銅三年(七一〇)に、神主大楽家の先祖兵太夫と、
宮ノ尾の彦兵衛(通称鬼彦兵衛、力持ち伝説有り)の両人が、
紀伊国熊野本宮に参向し、その神霊を島田村に勧請したとある。
 このサイトのホームページに詳細を紹介しています。



山口県光市島田942番地
 橿原神社の鳥居の根元に鬼彦兵衛に足跡がある。






鬼彦兵衛の足跡
 




鬼彦兵衛の足跡
 このサイトのホームページに橿原神社について詳細を紹介しています。



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