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山口県光市小周防 手塚律蔵の生家の紹介  2010-9-4  





山口県光市小周防
手塚律蔵の生家の紹介
 2010-9-4 
  手塚律蔵の生家について

 小周防新宮にある律蔵の生まれた生家は、今から約280年前に建てられたもので、現在は 「山さとうどん」の店として利用されている。
 小周防新宮集落の中ほどに、幕末から明治初期にかけて、英蘭学者・外交官 として活躍した手塚律蔵の生家がある。

 手塚家は系図によると、天正15年(1587)主君の黒田孝高(如水)が播磨国 (兵庫県)から豊前国中津(大分県)への入封に従い、如水より一字を賜り水 雷と名乗った人の孫に当たる光朝(寿仙)が、医家としての手塚家の初代であ り、2代の季重(玄栄)が元文年間(1736〜40)小周防に移り住み、3代辰起 (野仙)・4代連輔(玄常)・5代治孝(寿仙)・6代寿仙・7代謙造・8代 柳助までが、同所で医業を営んだ家柄である。

 律蔵は文政6年(1823)に5代治孝の次男に生まれ、天保9年(1838)ごろ 長崎に赴き滞在数年の間、高島秋帆などに師事し苦学の栄蘭学一洋学・医学・ 兵学などを学んで江戸に上り、轟永S年(1850)下総国佐倉藩(千葉県佐倉市) 藩主堀田正篤に仕え蘭学を講じ、7人扶持の待遇也得た。

 しばらく江戸京橋八丁堀の掘田家の中邸に庄ん噂いたが、数年後本郷元町に 一家をかまえ、私塾又新堂と名付けた蘭学塾を開いた。

 安政2年(1855)再び長崎に赴き・翌年幕府の蕃書調所に出仕し福沢諭吉らと教授方となり、その上 英学を独習した。
 また・江戸桜田の長州藩邸へ招かれて蘭書会読会に加わり洋学を論じたが・ このため文久2年(1862)尊皇嬢夷の志士たち(木戸孝允や伊藤博文もいたと いう)に襲われて佐倉藩に身を隠し、瀬脇良弼と母方の姓を名乗り、のち瀬脇 寿人と改名し、約8年間ここに住み、藩の学校博文堂の総裁になって英学を講 じた。


 明治3年(1870)外務省にはいり・主に翻訳に従事したが・同6年同志と読 売新聞を創刊した。
 同8年露清韓国境の視察を命ぜられ、同9年には初代浦塩 (うらじお)貿易事務官(領事格)としてウラディオストクに粧在したが、 病にかかりどうしても帰国したいため、同11年1i月この年の最終便の貨物船 ドラゴン号で函館に帰る途中、船中で亡くなった。

國廣哲也書 光市文化財研究会刊 光市史跡探訪第2集


 手塚律蔵の生家の場所





表示がある。



手塚律蔵の生家 現在は「山さとうどん」の店 




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玄関前の風景






手塚律蔵






  手塚律蔵が桂小五郎(木戸孝允)に送った書簡

     手塚律蔵(1822〜1878)
     東京都
     安政元年/1854年
     紙本・墨書・掛幅 本紙縦15.9、横50.5(cm)
     1幅
     山口県萩市大字堀内355番地
     木戸孝允旧宅襖下張り文書
     萩博物館
 手塚律蔵が桂小五郎(木戸孝允)に送った書簡。
 手塚は周防国熊毛郡小周防村(山口県光市)に生まれ、謙蔵とも称し、のちに瀬脇寿人と改めた。
 長崎で西洋兵学を学び、反射炉のテキストとして使用された『西洋鉄熕鋳造篇』を訳述。
 嘉永4年(1851)佐倉藩に召し抱えられた。同6年、江戸に開いた又新堂塾には、桂のほかに西周や神田孝平らが学んだ。
 この書簡は、手塚が校閲して刊行されたばかりの『洋外砲具全図』を桂に呈上したいなどと伝えていることから、 安政元年(1854)のものと考えられる。
 また手塚は、桂を通じて中島三郎助が所蔵する船図を入手しようとしていたこともわかる。
 木戸孝允旧宅の襖の下貼りから発見された珍しい資料。




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