..
..
..
..
山口県光市千歳橋 立石孫一郎の碑の紹介  2010-9-4  





山口県光市千歳橋  
立石孫一郎の碑の紹介
 2010-9-4 
  立石孫一郎について

 兵庫県佐用郡上月村で代々土地の大庄屋を務める大谷五左衛門の長男として天保3年(1831)1月に生まれた。
 18才のとき岡山県倉敷市の豪商で町年寄を務める大橋平右衛門の娘と結婚し、分家養子となり大橋敬之助(介)と名乗った。
 倉敷時代に立石が居住していた住宅は 岡山県都窪郡早島町 に現存する。
 現在は森田平三郎氏が移築され住んでおられる。
 文久元年(1861)以降、凶作が続き地方の米の値段が上がるなかで、当地の下津井屋吉左衛門が米の買占めを行った。
 買占めのため米価は上昇し貧民の生活は困窮の度合を増し、これをみかねて元治元年(1864) 10月、瀧本屋三郎等十数人の連名で月番役附であった大橋敬之助の元に 訴状が提出され代官大竹左馬太郎に上申し訴訟となった。
 結果、下津井屋は罪を受け入牢。
 しかし代官を始めその他の役人が交代となり、新代官に桜井久之助が就任することになり、下津井屋は賄賂を使い吉左衛門は釈放された。
 さらに敬之助が天誅組の戦跡を視察していると密告され、身の危険を感じた敬之助は妻と3人の子供を残して出奔、倉敷から姿を消した。

 敬之助が姿を消した後、浪士の一団が下津井屋父子を殺害し家屋は放火された。

 その後、敬之助は立石孫一郎と名乗り、同志の水島東九郎(清水宗義、総社清水家) の親戚が近い光市小周防真宮浄土真宗真行寺に潜伏した。

ホームページ幕末旅烏




  立石孫一郎の暗殺について  慶応2年(1866年6月9日)

 備中浅尾藩は蒔田氏の治める1万石の小さな藩だった。禁門の変において藩主の蒔田広考は京都見廻り役として長州を討伐している。
 このときの恨みもあり慶応2年(1866)4月12日、第二長州奇兵隊を脱走した立石孫一郎らの長州浪士100余名により 倉敷代官所と浅尾藩(総社市)が襲撃され倉敷浅尾騒動が起こった。
 この襲撃は暴動で犯罪であると山口県の歴史に位置づけられているという。


 暗殺は千歳橋の中央付近で行われた。満年齢34歳で死亡。

 暗殺闘争にたいる経緯は、総社市の浅尾藩陣屋襲撃後、 岡山藩と幕府軍に追われた第二奇兵隊主隊は 山口県東部の祝島に帰還する。
 立石は残された隊員の助命の道を探るため祝島から小舟で下松市の魚帰りの浜に上陸した。
 光市浅江の清鏡寺の住職に相談をするが、清鏡寺住職は光市立野長徳寺住職に隊士助命斡旋の依頼を行った。
 依頼を受けた住職は早速清水家に立石帰るの通報をおこなった。
 通報を受けた清水家では、同家私塾の慕義会幹部に立石殺害を指示する。
 やがてこの殺害の意向は、長徳寺から清鏡寺にと伝えられた。

 立石には助命嘆願の道が開けるかのように装い、島田川東岸の島田宿で一席設けるとの誘いを行い、午後8時ごろ千歳橋に 差し掛かると長徳寺住職は忘れ物をしたので寺に取りに帰るのでと、手に持っていた提灯を立石に渡した。

 待ち伏せされているとも知らず橋の中ほどに差し掛かったとき慕義会(相木鷹之助指揮)の連中は、橋を渡る提灯をめがけて銃火を浴びせた。
 銃弾を受けた立石はその場に倒れたが、部下の引頭兵吉に川に飛び込んでこの場を離脱するように指示した。

 逃れた引頭はやがて立石の死を悟り義母の納屋で回転式6連発拳銃(リボルバー)で自決を遂げた。

ホームページ立石孫一郎 検死記録


 立石孫一郎の碑の場所


現在国道188号線を浅江(徳山方向)から島田側に渡った右河畔


立石孫一郎の碑。

明治2年(1869)3月に建てられた立石霊社という小祠がある。
また七十回忌にあたる昭和10年(1935)地元島田村の青年団
たちが当時の金で20円を集め碑を建立した。この碑の裏には、
「君は岩城山隊長にして、当時わが藩をして速やかに討幕の義兵を
挙げしめんが為、掟にそむき慶応二年四月四日隊兵九十余人と共
に同隊を脱走、倉敷に出で幕府の陣営を打はらい、帰国したる
を同年月四月二十六日、千歳橋上にて殺害される。
行年三十六歳」 と刻まれている。



立石孫一郎の碑 



立石孫一郎の碑の裏側。小さな神社の隅にある。




立石孫一郎の碑からみた千歳橋。





神社名不明


















 






千歳橋 事件当時の千歳橋は幅1間(1.8m)位である。
昭和初期まで橋のたもとに水車があった。









交差点の近くである



島田川









TOPページ






inserted by FC2 system inserted by FC2 system