立石孫一郎について |
兵庫県佐用郡上月村で代々土地の大庄屋を務める大谷五左衛門の長男として天保3年(1831)1月に生まれた。 18才のとき岡山県倉敷市の豪商で町年寄を務める大橋平右衛門の娘と結婚し、分家養子となり大橋敬之助(介)と名乗った。 倉敷時代に立石が居住していた住宅は 岡山県都窪郡早島町 に現存する。 現在は森田平三郎氏が移築され住んでおられる。 文久元年(1861)以降、凶作が続き地方の米の値段が上がるなかで、当地の下津井屋吉左衛門が米の買占めを行った。 買占めのため米価は上昇し貧民の生活は困窮の度合を増し、これをみかねて元治元年(1864) 10月、瀧本屋三郎等十数人の連名で月番役附であった大橋敬之助の元に 訴状が提出され代官大竹左馬太郎に上申し訴訟となった。 結果、下津井屋は罪を受け入牢。 しかし代官を始めその他の役人が交代となり、新代官に桜井久之助が就任することになり、下津井屋は賄賂を使い吉左衛門は釈放された。 さらに敬之助が天誅組の戦跡を視察していると密告され、身の危険を感じた敬之助は妻と3人の子供を残して出奔、倉敷から姿を消した。 敬之助が姿を消した後、浪士の一団が下津井屋父子を殺害し家屋は放火された。 その後、敬之助は立石孫一郎と名乗り、同志の水島東九郎(清水宗義、総社清水家) の親戚が近い光市小周防真宮浄土真宗真行寺に潜伏した。 |
立石孫一郎の暗殺について 慶応2年(1866年6月9日) |
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立石孫一郎の碑の場所 |