小野小町の墓について |
旭地区を通る県道沿い.小野橋の西側に小野小町の墓がある。
毎戸時代の天保年間(約百八十年前)に書かれた「小周防風土記」という書物の中に.すでにこの地に「小野小町 の幕」があることが記されている。
元々墓は近くの田の中にありましたが、県道のそばに移し、墓標が建てられた。
小野小町は、今から約千二百年前の平安時代の女流歌人で、百人一首の
「花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」
の歌でも有名である。
六歌仙、三十六歌仙にも選ばれるとともに、絶世の美女であった小野小町ですが、晩年は京 を離れ全国各地を転々としたといわれている。
県内では、下関市豊浦町川棚地区にも小野小町の墓がある。
國廣哲也書 光市文化財研究会刊 光市史跡探訪第2集
小野小町について
小野小町 (おののこまち)
生没年未詳
平安時代初期の歌人。
820年代後半の生まれか。
六歌仙、三十六歌仙の一人。
父は、小野篁という説と小野良真(小野篁の息子)であるという説がある。
小町の活動時期はほぼ仁明朝(833年〜850年)と推定され、仁明天皇の更衣・小野吉子と同一人物とする説もある。
小野小町ゆかりの隨心院では、上記の説が伝えられており、仁明天皇崩御ののち、現在の京都市山科区小野御霊町に移り住み、 仁和・寛平の頃に70歳を過ぎて亡くなったという。
古今和歌集仮名序には「いにしへの衣通姫の流なり、あはれなるやうにて強からず、いはばよき女のなやめるところあるに似たり」 と評されている。
潜水橋(小野橋・旭橋)と島田川について
明治29年(1896年)の地図で、光市で島田川に橋がかかっていたのは、旧千歳橋と 鉄道の鉄橋と周防地区の永代橋だけである。
島田川に橋が少ない理由は、明治初期まで行われた川船での河川交通で橋が邪魔になったこ とと、島田川がよく氾濫して度々橋が流された。そのため、木の杭に板を載せ移動できる仮橋が所々にあった、
流域の住民には、橋は必要不可欠なものです。後にコンクリートの溌達て水中にあっても流 されない橋ができるようになり、この島田川の旭橋や小野橋のように、全国の河川で潜水橋が できて、住民の生活に役立ちました。
潜水橋は橋の上に欄干が無く.水面からの高さが高くないことが特徴.増水時に.橘が水面下に没するようにな っており、流木や土砂が橋桁に引っかかり橋が破壊されたり、川の水が塞止められ洪水になることを防ぐ。
國廣哲也書 光市文化財研究会刊 光市史跡探訪第2集
小野小町の墓と潜水橋(小野橋・旭橋)の場所
小野小町の碑について |
由来 当地(旧尾の地区)昔小野小町の墓があったという言い伝えがあある。 江戸中期に編集された記録(熊毛郡小周防村風土記)によると田の中の畔に小野小町の墓所があり、 その地下一丈七尺(約5m)の所に石碑が埋めてあると古人の申し伝えがあるが、これを掘り出し者はいない。 しかし、この場所で燈明を澄し祈念などすれば、歯痛やその外の諸病が、 たちまち平癒するというので折々参詣する人があった。したがって、この里の地名を小野と呼ぶようになった…」と記されている。 平安時代の女流歌人、三十六歌仙の一人小野小町は、その美しさから目木美人の代名詞となり、世界三大美女の一人に数えられている。 小町の生没年など不明であるが、生誕の地とか終焉の地と伝えりれるところが日本各地に数十ケ所ある。山口県においては、 豊浦郡川棚と光市のここ二ヶ所でともに終焉の地と伝えられている。 光市小周防の当地区の人々は、今日でも小野様といって墓地を語り伝え、この地で生まれた子女は美人が多いと言う。 |
小野橋から見る島田川