★鎮座地 光市大字島田第3034番地 ★主要祭神 伊邪那美神 (いざなみのかみはやたまのおのかみ) 速玉之男神(はやたまのおのかみ) 事解之男神(ことさかのおのかみ) 国之常立神(くにのとこたちのかみ) 天照大御神(あまてらすおおみかみ) 天忍穂耳命(あまのおしほみみのみこと) 填々杵命(ににぎのみこと) 火遠理命(はおりのみこと) 鵜茅葺不合尊(うかやふさあえずのみこ) 迦具土神(かぐつちのかみ) 埴安媛神(はにやすひめのかみ) 稚産霊神(わくむすびのかみ) ★主要祭典 例祭(十月第三日曜日)、 祈年祭(四月第三か第四日曜)、 田頭祭(七月十七日)、 新嘗祭(十二月第二か第三日曜日) ★社殿 本殿(流造・五坪)、幣殿(三坪)、釣屋(六坪)、拝殿(一二 坪)、神齪所(三坪) ★境内神社 松浦神社(素藍鳴尊(すさのうのみこと)外三座) ★境内地 五二六坪境外地二七坪 ★境内建造物 一ノ鳥居(石造・元禄十年)、ニノ鳥居(石造・昭和十年)、 中灯籠一対一石造・寛政十年)、狛犬一対(石造・寛政五年)、 神輿庫(ブロック造・五坪) ★奉納芸能 島田人形浄瑠璃芝居(県指定文化財)は、境内社の松浦神 社に奉納され、現在では八月四日・五日に市民ホールで上 演される。 山口県神社誌 平成10年3月25日 山口県神社誌編集委員会
『防長風土注進案』に記載された社伝によると、奈良時代 の和銅三年(七一〇)に、神主大楽家の先祖兵太夫と、宮ノ 尾の彦兵衛(通称鬼彦兵衛、力持ち伝説有り)の両人が、紀 伊国熊野本宮に参向し、その神霊を島田村に勧請したと ある。 当社の旧号を十二社権現と云い、明治四年(1871)熊野神社と改称、 明治六年(一八七三)村社に列した。 神社庁設立以降昭和三十五年(1960)御鎮座1250年、昭和六十年 (1985)に1275年の式年大祭を斎行した。 山口県神社誌 平成10年3月25日 山口県神社誌編集委員会
(略) 社伝二日、元明天皇之御宇和銅三庚戌ノ年、神主大楽家之先祖兵太夫 宮ノ尾の彦兵衛なる者両人、紀州熊野本宮へ参向し神霊を奉勧請同年 九月十五日遷宮、是より嶋田村中井野原村氏神鎮守と奉崇、彼彦兵衛 何等之訳にや鬼彦兵衛と仇名し、今権現之末社に石子権現と祭るは是なり、 其家代々鼓頭(コツトウ)となりて、祭日は神輿二相添始終供奉し、 年中之費銭散米渠か家に納り社地境内掃除無怠相勤候事、寛文年中社煙焼、 旧記棟札宝物焼失、寛政六寅ノ年神主宅火災之節縁記由来旧記悉焼失 二付縁記由来不詳おふむねをしるす ( 『防長風土注進案7』より
熊野神社(場正の中屋、旧除高二石八斗八升二合一祭神伊邪那美 神・速玉之男神・事解之男神・国之常立神・天照大御神・天忍穂耳 命・遍々芸命・火遠理命・鶴茅葺不合尊・迦具土神・埴安媛神・稚 産霊神、和銅三年紀伊国熊野より霊を分ち祀る。 一旧号十二社大権現、明治四年改称。注進案に神主大楽家の先祖兵 大夫・宮ノ尾の彦兵衛、両人紀伊熊野本宮に参詣して勧請し、和銅 三年九月十五日遷宮云々。 彼彦兵衛何の故にか鬼彦兵衛と字し云々。代々鼓頭となり云々と見ゆ。 按に彦兵衛が家、御改正前まて鼓頭を勤め来りしをおもへば、 彦兵衛の祀りそめし社なるべし。 さて和銅と云ふは非なり。当時兵大夫・彦兵衛など云ふ名あらぬは云 ふまでもなし。土人の伝に大坊・神峰寺・東善坊・法性坊・利庵坊・ 尾崎坊・法常坊と云ふ六坊ありきと云ふ。 いつ廃絶せしか。浅江村清鏡寺に明暦二年十一月朔日の沙汰書 ありて、島田村権現社領高弐石五斗、同村川口船役浮石を以て先年 より被除置候得共、当年より畠地を以開替申付云々、近年社僧無之 に付、同郡浅江村清鏡寺へ付条、権現守護井社役之渋紙・細引御 定之辻を以調可被申付候、勿論社領高弐石五斗之儀者、島田村権 現立除被置候儀候云々とあり、これより御改正まて清鏡寺社役を 奉仕したりき。 又上に云ふ六坊の外に、大田に吉祥寺と云ふ寺址あるが、この吉祥 寺本社の別当にて、末寺十二坊ありたる由に云ふ) 『山口県風土誌四』』より
●指定年月日 昭和51年3月16日 ●場所 光市島田四丁目13番15号(島田人形浄瑠璃芝居保存会) 人形浄瑠璃は浄瑠璃や三味線に合わせて曲中人物に扮装した人形を 操る日本固有の人形劇で、江戸時代中期に近松門左衛門や竹本義太 夫の出現以後独自の劇形式が完成した。 島田人形浄瑠璃芝居については天保年間(1830〜43)に萩藩が編修 した地誌である『防長風土注進案』に、「六月十五日は祇園祭として 五穀成就、牛馬安全の為め社参祈念等仕り休足仕り候(中略)中古よ り祇園社の境内に於て一両夜宛操り狂言仕り来り申し候事」とあり、 熊野神社の境内末社である松浦神社(祇園社)への奉納芸能として伝 承されてきた。 松浦神社のある島田4丁目の南一帯の島田市は江戸時代に「島田百軒」 と称されるほどの賑わいを見せ、このうち本頭(ほんとう) 20〜30軒 で人形使いと浄瑠璃を世襲し、本頭から頭屋(とうや)2軒、本頭以外から 脇頭屋4軒を選んで小屋掛けや雑用にあて、氏子中から春は麦、 秋は籾を各1升ずつを集めて奉納上演の費用としていた。 昭和30年(1955)に境内の一角に舞台が作られ、 39年(1964)には 保存会が結成された。47年(1972)に光市民ホールが完成してからは 、ここでの上演を氏子全体で行っている。 上演期日は旧暦の6月14・15日に行っていたが、昭和39年から新暦 の8月4・5日の両日に改められた。 人形は3人使いの淡路系のものが約80体現存し、この中には江戸時 代文化年間(1804〜17)の大江万造作源太首をはじめ、笹屋喜作・ 天狗久(天狗屋久吉)・由良亀・人形富など作者がわかっている作品も現存する。 衣装は寛政年間(1789〜1800)に新調奉納した源義家の直垂(ひたたれ) など約200点と、行灯や三味線などの小道具も保存されている。 なお、人形の一部は光市民ホールに常設展示されている。 『 県指定無形民俗文化財 』より
山口県指定無形民俗文化化財 島田人形浄瑠璃芝居 ★発祥の由来 島田川の流るるここ光市島田に熊野神社があり、ぞの末社は松浦神 社は郷土の人々より「祇園さま」と崇めあれていました。 室町時代のある年、島田地区一帯疫病が流行し、ぞの平癒祈願をするため、 祇園社に詣でて人形芝居を奉納上演し、疫病退散を祈願しましたと ころ疫病はたらまち平癒しました。 当時の人々は祇園さまの神霊ああたかなるに感謝し、この地にあ るかぎり子孫に至るまで永遠に祇園さまのご祭礼日にあたる、八月 四日、五日には人形芝居を奉納上演することを誓いました。 以来四百有余年の間、世襲として継承されてまいりましたが、時 代の変遷に伴い昭和三十九年島田人形浄瑠璃芝居保存会を設立し、 ぞの維持保存につとめ、今日まで絶やすことなく継承されてまいり ました。 ★保有されている人形(光市民ホール) 「会」の人形は三人遣いの淡路系のもので、国宝級男首の六名人 である大江万作一点、文化律間に製作、国宝級女首の六名人で ある笹屋菖作の作一点、文化年に製作、ぞの他天狗屋久吉の作十 二点、人形富、由良亀等の作八十点が保存してあり、ヌ衣装につい ても寛政年間に作った「源義家のしたたれ」等七十点が保存されて おります 平成15年1月吉日 保存会事務局、光市観光協会 (説明板転記)
松浦神社(御祇園様)起源経緯 ★祭神 牛頭天王乃至素蓋鳴尊、櫛稲田媛命並びにその御子神八柱 霊験、悪疫退散、病魔平癒 ★起源 慶安三菱西暦1650年頃京都の八坂神社より時の代官吉原 氏他地元有志により御神霊を勧請し祇園社を建立祀神した。 ★経緯` 嘉永六年(西暦1815年)頃大火で祇園社を焼失、再建、 を画策していたが時代の流れにより、排佛、毀釈神社仏閣 等の統廃合政策が進められてきたので、玖珂郡広瀬村で廃 社予定であった松浦神社を、勧請し社殿を建立祀神し、 更に祇園社を合相し松浦神社として今日に至る。 ★祭日 旧来は旧暦6月14日、15日の両日最近は諸般の事情で 新暦8月4日、5日の両日祭礼を営む。 ★付記 祭日には「島田人形浄瑠璃芝居」(山口県指定無形民族文 化財)がかならず奉納される。 推定では応仁二年(西暦1476年)頃より(人形芝居) の奉納を神に誓い、悪疫退散を祈願したことに由来しその 誓いは固く守りれ連綿として継承され今日に至る。 (災害等で資料が散逸し古老方の口伝えを主体に伝承を掲載)