山口県光市室積中央町 荒神堂跡の紹介 2010-4-24
荒神堂の名前だけは子供のころより知っていたが、 神社の構造物の御影石が残されているだけで 、詳細が分からなかったので、今回調査した。 ふるさと郷土館より入手した1736年(元文3年) 頃の室積(地下上申絵図をもとにして)の地図に鳥 居と荒神が記載されている。従って1736年以前に存 在していたことになる。 残された御影石に寛政(1789-1800)、安永(1722-1780) の文字が読み取れる。
@.戦前には宮司さんを招き祭りが行われていた。 Aその後祠、鳥居等を早長八幡宮へ移転した。(時期不明) (以上近所の古老より) B現早長八幡宮宮司さんは移設について、分からないと 言われた。大工さんの紹介をして頂いた。 江原神社は荒神さまが祀られており、祭神は須佐之男命・ 素盞嗚命(スサノオノミコトといわれた。 C早長八幡宮の本殿の左側に江原神社がある。早長八幡宮 の修理等をされる大工さんから自分は直接見ていないが、 荒神堂からこちらへ祠等移したと聞いた事があるといわれた。 D荒神跡には室積一、二番といわれるマツの立派な巨樹が あり、漁師さんの船から見え寄港の目安となっていたとの ことである。 小学生の頃、落雷によりこの松が折れた。折れて焼けた松 を見に行った方もおられ、当事にはクスノキ、センダンの 木はなく祠もあったとのことである。 現在はクスノキとセンダンの巨木があり、クスノキは光市 の名木100選に指定されている。 クスノキが育つ間に移転されたと推定される。 E.残念ながら荒神堂跡から早長八幡宮の江原神社に移した ものについては、知っている方が見つからず確認できなかった。 しかし3名の方から移展の話を聞き移転は間違いないと思われる。
地荒神は、屋外に屋敷神・同族神・部落神などとして祀る荒神の 総称である。 中国地方の山村や、瀬戸内の島々、四国の北西部、九州北部には 、樹木とか、大樹の下の塚を荒神と呼んで、同族の株内ごとに また小集落ごとにこれを祀る例が多い。 山の神荒神・ウブスナ荒神・山王荒神といった習合関係を示す名 称のほか、地名を冠したものが多い。 祭祀の主体によりカブ荒神・部落荒神・総荒神などとも称される。 旧家では屋敷かその周辺に屋敷荒神を祀る例があり、同族で祀る 場合には塚や石のある森を聖域とみる傾向が強い。 部落で祀るものは生活全般を守護する神として山麓に祀られる ことが多い。 樹木の場合は、地主神、作神(さくがみ)であり、牛馬の安全 を守るが、甚だ祟りやすい。 また祀る人たちの家の火難、窃盗を防ぐというから、三宝荒神 の荒神と全然別質のものとも言えない。 地荒神にみられる地域差は、その成立に関与した者と、受け入 れ側の生活様式の差にあったとみられる。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
伊耶那岐神の三貴子の第三神。伊弉諾尊・伊弉冉尊の子。天照大神の弟。 凶暴で、天の岩屋戸の変を起し根の国に流され、出雲国で八岐大蛇 (ヤマタノオロチ)を斬って天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ) を得て、天照大神に献じました。 また新羅に渡って、船材を持ち帰り、植林の道を教えたといわれます。 天変地災、生老病死など人間の萬の苦しみの象徴として全国多くの 神社に奉斎され、天災・疾病などを祓い除ける神として信仰されている。 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』