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山口県光市光井鮎帰 市川正一の碑の紹介  2010-4-10  





山口県光市光井鮎帰
  市川正一の碑の紹介    
 2010-4-10 

   市川正一記念碑

本籍地の山口県光市光井鮎帰の県道沿いに、没後27周年記念・
日本共産党創立50周年記念で1972年3月15日、市川正一記念碑
が建立された。
現在も命日の3月15日には日本共産党山口県委員会による「碑前祭」
が開かれている。
以前は志位和夫書記局長(当時)が来訪したこともある。
手塚英孝の小説「落葉をまく庭」に、この記念碑建立についての
話題が記されている。
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     市川正一略歴


1892〜1945年
1892年3月20日、山口県厚狭郡宇部村現宇部市に生まれる。
本籍は当光市光井鮎返り。
1910年県立山口中学を卒業、広島高等師範学校に入学したが同校を
2年で中途退学、早稲田大学予科に入学。
1916年、早稲田大学文学部を卒業、読売新聞社社会部記者となる。
1918年、読売新聞社への軍部の干渉に反対し、退社翌年大正日日新聞に入社。
1920年・大正日日新聞の保守性に失望して退社。国際一通信社に入社、
このころから社会主義の研究をはじめる。

1922年4月、雑誌「無産階級」を発刊。翌年一月、三十一歳で日本共産党に入党。
1923年6月、日本共産党第一次弾圧、治安維持法違反で懲役8ケ月。
1924年5月「党理論雑誌、マルクス主義」編集。1926年3月、党合法紙『無産者新聞」主筆。
1926年12月、日本共産党第三回大会で中央委員に選出、翌年12月、
党中央常任委員に選ばれ、宣伝、先導部長となる。
1928年4月、コミンテルン第六回大会に党代表として出席。
1929年4月特高警察により逮捕される。約2ヶ月に渡る拷問にも屈せ
ずき然して戦う。
公判では、代表陳述として支配階級を徹底的に糾弾して日本産党の闘争
についてのべ、党と人民の正義の事業が必ず勝利するだろうと堂々と主張。
『日本共産党闘争小史』として出版される。
1935年7月、在獄中のまま、コミンテルン第7回大会で執行委員選ばれる。
1945年3月15日、長期の獄中生活にも志をまげず、終戦を目前に宮城刑
務所で53歳で死去。

現地説明板

  市川正一記念碑の場所





市川正一記念碑 看板





市川正一略歴





道路わきの階段を少し登ると記念碑




シダレヒガンの変異種のベニシダレ(桜)の下に記念碑がある。
シダレヒガンは通常淡紅色であるが濃い紅色をベニシダレという。





花の時期に花見をお勧めする。




































  記念碑からの景色










入口





市川正一写真






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