山口県光市室積ふるさと郷土館 室積史跡めぐりウォーク 2010-3-20  





山口県光市室積ふるさと郷土館  
室積史跡めぐりウォーク 
 2010-3-20 

室積史跡めぐり 


  集合場所 山口県光市室積ふるさと郷土館
室積史跡めぐり概要
 ここ室積は陸繋島(りくけいとう)で出来た良湾をもち、その御手洗湾は自然の景観 はもとより、歴史にでてくる史跡や事物が多いことで知られています。

 これらの史跡を巡りながら、早春の室積半島を散策し、自然と歴史を満喫し てください。

史跡巡りコース
〈出発点)高札場→対面の松→中熊毛宰判勘場跡→専光寺 →燈籠堂
→普賢寺(、迷い子石、仁王門、平判官康頼の碑、雪舟の庭) →イロハ井戸→長州撫育方室積会所跡→不動明王→象眼水井戸→室積台場→
大師堂、(御手洗観音、弘法大師像、遊女の歌碑)

室積史跡めぐりウォーク場所




 室積史跡めぐりスナップ写真




 光ふるさと郷土館  室積5丁目


  郷土館は本館と別館からなり、本館は江戸時代後期から昭和30 年代にかけて醤油屋を営んでいた磯部家を修復したものです。
 建物 は、明治時代初期(原型は江戸時代末期)に建てられた町家造りの 商家で、俗に「うなぎの寝床」といわれる、間口が狭く奥行きが長い 商家独特の造りとなっています。
廻船に関する資料や醤油の醸造道 具等を展示しています。
 別館の礒部家は、磯部家の本家に当たり、廻船業を営み江戸・大 坂・琉球などとの交易により栄えた旧家です。
 建物は、昔の姿そのま まをとどめ、大黒柱は25.5cmもある大きなもので、有形登録文化財 に指定されています。



館長挨拶




光ふるさと郷土館スタッフ同行者


高札場  

江戸時代・市場町・門前町・港町など、人の出入りの激しい要衝の地に、
幕府または藩府の触書・捷書などが掲示された場所。地下上申によると、
室積は当時から人の出入りの多い土地で、その中心が北町であったらしい。




高札場 「光市室積観光ボランティアガイド」説明 


中熊毛宰判勘場跡 テレビ局取材

宝暦13年(1763年)藩政改革の一環として熊毛宰判の7村と上関宰判の6村を
分離統合し、室積に勘場を置いて中熊毛宰判を設置。勘揚としては僅
かな期間であったが、室積発展の礎となった。



中熊毛宰判勘場跡



対面の松

性空上人が、ここ室積で普賢菩薩に対面した事跡を後世に伝えるために植えら
れた松。
享保18年(1733年)の大火で焼失したため役人が植え継ぎ、天保5年(1834年)には
近隣の村人が亀践塔(きふとう)の記念碑を建立した。




対面の松




専光寺

江戸時代に運誉上人が阿弥陀如来を本尊として再興。宗派は浄土宗。
毛利氏は、渉外館として利用することもあり、幕末諸事件の処理もこの寺で行われた。
幕末には、この寺を本拠地として奇兵隊が結成された。


専光寺


専光寺本堂


みたらい燈籠堂

百姓松村亀松が父の遺志を継ぎ、元禄15年(1702年)に象鼻ヶ岬に自費で
燈籠堂を建てた。
山口県の灯台では最も早くに作られたもので、国内でも24番目の灯台。
平成3年にみたらい公園に復元された。



みたらい燈籠堂 「光市室積観光ボランティアガイド」交代



普賢寺仁王門

金剛力士像は最初普賢堂に安置されてい
ましたが普賢堂の拝殿が手狭になったため、寛政10年(1798年)に仁王門を建立し
て木造の金剛力士像を安置しました。
像は向かって右側が 口を開いた阿形の密迩金剛、左側が口を閉じた吽形の那羅
延金剛ですが、仁王にしては珍しく温和な表情をしています。
楼上には仏教開祖の釈迦牟尼仏を主尊に、左に光厳童子、右に月 蓋長者を脇士にし
、 その両側に十六羅漢が安置されています。
十六 羅漢は永く世にあって正法を護持する十六体の阿羅漢で広く信仰さ れて
います。



左側が口を閉じた吽形の那羅延金剛

 

右側が 口を開いた阿形の密迩金剛
 
            

迷い子石

普賢まつりの大混雑の中で迷い子が多く出ることから、子探しを助ける方法として、
迷い子石が設けられた。
混雑は想像を超えるもので、親の苦労を助けるため、この石のそばに迷い子を集め、
名を書いた紙を張りだして番人が世話をしたといわれています。


 

  平判官康頼の碑

治承元年(1177年)、平家を滅ぼす謀が平清盛に漏れたことから、平康頼は鬼界
ヶ島へ流されることになり、その途中、室積に立ち寄り、仏道に入り残した
一首ついにかくそむきはてけむ世の中をとくすてざりしことぞかなしき」を刻ん
だ碑(大正13年(1924年)に再建)



平判官康頼の碑  ガイド説明中


  平判官康頼の碑


普賢堂

普賢まつりについて
毎年5月14日・15日に開催される室積最大の祭りです。農具市に端 を発し、
性空上人の命日をとって江戸中期から始まった縁日で、海難 守護の仏として
瀬戸内海一円からの参拝船で御手洗湾が埋め尽く されるほどの盛況ぶりであった。
現在でも普賢堂境内及び 周辺の沿道に、植木、陶器、雑貨等の露店が300余り
も立ち並び、多くの 人出で賑わう。


          

普賢寺

性空上人が普賢菩薩を大多和羅山(峨曙山)の峰に堂を築き、
寛弘3年(1006年)に安置したことに始まる。元は天台宗であったが、
後に臨済宗となって、室町時代に現在地へ移したとされている。





雪舟の庭(普賢寺庭園)

普賢寺境内の奥まった一角に、深山幽谷を思わせるようなうっそ うとした樹木
と自然石を巧みに調和させて築造された庭園があります。
左奥に釈迦三尊石組みによる枯滝、前面を池に見立てた枯池式 枯山水庭園です。

寺伝では雪舟の築庭とされていますが、築庭時期 については、室町時代後期
と江戸時代初期の2説があります。
いずれにしても、水墨画的な庭園構成、力強さや遠近感手法は、枯山水庭園初期
の作例と推定されるみごとな庭園です。
(山口県の指定名勝、山口県文化財に指定)



イロハ井戸

江戸時代、享保18年(1733年)に「享保の大火」と呼ばれた火事 があり
「普賢寺の本堂・庫裏・対面の松をはじめ番所1・土蔵8・民家 226戸を焼失」
しました。
このような惨禍を再び起こさないため、「山城屋」という廻船問屋 が火災
予防と飲料水を兼ねて、宮ノ脇から江ノ浦にいたる道路沿い に共同井戸を
10箇所相度掘り、人々に提供しました。
これらの井戸は 「イロハ井戸」と呼ばれましたが、その呼称は口伝えであっ
て語源は不明です。
その後、井戸は道路整備などで徐々に失われ、現存するここのも のは貴重な
存在となっています



イロハ井戸 説明中


長州撫育方室積会所跡

毛利藩は江戸時代中頃、財政改革の一環で撫育方を新設しまし
た。その資金で室積港を整備し、経済活動を行いました。
室積会所の設置は1769年といわれ、1773年からこの地を藩が買
上げ、藩内各地の米蔵を移築して、主に藩の年貢米をここに集めて
売り捌く仕事をしていました。


この敷地一帯に、役所と米蔵や銀子蔵が 次第に増改築され、
荷揚げ用の波止も築かれました。会所の設置が 室積発展の契機
となりました。
明治時代からは、熊毛郡役所が置かれ、役所移転後は山口県立
工業学校、師範学校、女子師範学校、山口大学教育学部と次々
に学 校が置かれ現在に至っています。



長州撫育方室積会所跡


不動明王

弘法大師が中国から伝えたと言われる現世利益除炎延命招福の守り本尊で、
波切不動明王とも言われ、弘法大師像と同時に建立された(青銅作り)と言わ
れている。
昭和31年に御詠歌の会により石像で復元された。



不動明王




  象眼水井戸


象眼水井戸
象鼻ヶ岬の象の目に当たる位置から湧き出たので
象眼水井戸と言われている。
明和年間(1764〜1771年)に湧き出たと伝えられている。




象眼水井戸


室積台場
弘化4年(1847年)、対外情勢の緊迫につれ、沿岸
防備、の目的で長州藩が全国に先がけて築塁した。
(市指定文化財(史跡)



大師堂

弘法大師が唐より帰朝のおり、七日七夜の護摩供養くごまくよう)の後、
浄水で身を清め、自像を刻み、さらに一個の自然石に厨子を彫られたという霊場。
境内には、御手洗観音、弘法大師像、遊女の歌碑凋防なる御手洗の沢辺に風
の音つれてささら波立つ」がある。





遊女の歌碑

周防なる御手洗の沢辺に風の音つれてささら波立つ」がある。
普賢寺の開基は兵庫県書写山円教寺の性空上人と伝えられ、寛弘3年
(1006年)一条天皇の頃創建されたといいます。
普賢縁起によれば、兵庫県書写山円教寺の性空上人が生身の普賢菩薩を見
たいと祈願したところ、遊女から夢のお告げがあり、 ここ室積で漁人が海中
から網で引き上げた普賢菩薩に対面したという 遊女と性空上人の物語が生
まれました。



御手洗観音、


御手洗観音







弘法大師像

弘法大師が唐より帰朝のおり、七日七夜の護摩供養くごまくよう)の後、
浄水で身を清め、自像を刻み、さらに一個の自然石に厨子を彫られた
という霊場。



弘法大師像






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