山口県光市光井9丁目 光稲荷神社の紹介  2010-1-8  



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山口県山口県光市光井9丁目    
 光稲荷神社の紹介   
 2010-1-8 

   光稲荷神社の祭神他


鎮座地 :山口県山口県光市光井9丁目
祭 神 :宇迦之御魂大神、八幡大菩薩
御利益
商売繁盛 家内安全 交通安全 病気平癒 無病息災 所願い成就
  光稲荷神社のゆえん

 今は昔、周防の国、大島郡三蒲(みがま)に弘法大師の弟子、基燈法師がおられた。
 元慶9年(885年)頃の生まれで、己が生国伊予の大守 河野家の祈願所真言宗の一寺、松尾寺(しょうびじ)を承平6年(936年)に創建された。
 大島郡が伊予の河野家の領分であった頃に次ぎの物語が残されている。
 河野の殿様が美しい奥方を伴って、しばらく城に滞在されたことがあった。
 ある日、家来をつれて文殊山(もんじゅやま)で狩りをされお城に帰ってみると、部屋に奥方が双子のように二人座っているあっとおどろいた。
 だれか気をきかせて美しい女性(にょしょう)を旅のつれづれにはべらしたのだろうと、思ったのもつかの間、一人がすり寄って来て甘えるように、「殿、おめしもののお着替えを。」
と、白い手をさしのべると、もう一人の奥方も同じように、殿様の後ろに回り狩衣(かりぎぬをぬがせようとする。その物腰、声色までまったく同じ。
瓜二つとはこのことと感心してはおれず、困った。そこでどちらが本物か見破る方はないかと殿は思案した。
とっさに浮かんだのが三蒲の松尾寺の基燈和尚のこと。
 弘法大師の弟子で高徳の僧として人々から崇(あがめられていた。
 基燈和尚は時ならぬ殿様の訪れに、何事ならんと出迎えたがわけを聞くと声を立てて笑いこんどはムニャムニャと口を耳につけて秘法を授けた。
 夜になった。家来に命じ殿は二人の奥方を一つの部屋に寝せた。
 とぎの声もかからないので、不満そうな奥方たちも、いつの間にかスヤスヤと眠った。
 そのとき、ふすまの一隅がわずかに開き、ひそかに集められていた、数十匹のハエが放たれた。
 ハエは二人の奥方の寝姿を襲う。それとは知らぬ一人は手で顔に止まったハエを払う。
 今一人はなんと器用に耳をピクピク動かしてハエを寄せつけない。
 この様を息を殺して隣室からうかがっていた侍女の一人が、殿様に知らせた。
 耳を動かした方の奥方がしばりあげられた。
「ギャア」と悲鳴を上げ、キツネが正体を現した。
「こらーよくもわしをだましたな。成敗(せいばい)してくれようぞ。」怒った殿様だったが、「一度あなたのおそばに化けて出てみたばっかりに」と、
 あわれみを乞(こ)う女(め)ギツネに、殿は哀れみを覚え、早々にこの地から立ち去ることを命じた。
 その後、殿様は三蒲の小山田の小さな山かげに稲荷社を建て、祀ったという。
(語りつぎたい山口昔話より)
 これが光稲荷神社のゆえんである。
その狐は基燈法師に帰依し、姿はともに大きく石に現われ、良い狐に
なって神につかえ光市の稲荷社に祀られている。
 現在の光稲荷神社の宮司が基燈法師の子孫にあたられる。
光稲荷神社ホームページより




基燈法師と良い狐の大きく現われた石





聖光高校の近くである





光稲荷神社





基灯寺がそばにある。





光稲荷神社正面




基灯寺正面






基灯寺内部色々な神仏の現れた石が置かれている。





奇跡の石(基灯寺内部)
光稲荷神社には、基燈法師と狐が現われた巨石のほかに奇跡の石が
数個祀ってある。
その奇跡の石の一つに、水子地蔵の石(下の写真)がある。この石には、
赤ん坊の姿が写しだされている。
最初は、まったく平らであった面に、神仏の力によって手と足そして
顔までもが現われた。
この石は、偶然見つかったのではなく、基燈法師の声が光稲荷神社の
宮司に伝わり、この石を探しあてられた。
石は硬いので、人間では道具を使わないと姿をつくることは不可能です。
しかし、神仏は光を発して姿を写し出し、奇跡の石をつくることができる。
なぜなら、神仏の力は無限だからである。
光稲荷神社の奇跡の石は、基燈法師が1000余年後の今に、光稲荷神社
の宮司にメッセージを伝えられ、私達に奇跡を見せて下さったのである。





 





 





 





 





 





 






 



 大日堂(基燈法師がまつられている。
この基燈法師については、「今昔物語巻13第25」に記されている。
基燈法師の行における詳細ははかりしれませんが、日本三大修験の山英彦山
(ひこさん)で行をされたらしく、また巡錫(じゅんしゃく)しながら
応神天皇が母である神功皇后(じんぐうこうごう)のために再営された霊地で
ある山田の庄(現在の神戸市北区山田中)に行かれ六條八幡宮宝殿を造営されています。
それが、長徳元年(995年)法師110歳の時のことです。
はじめは、草庵(円融寺)を営んでおられたが、翁に姿をかえた八幡大菩薩
(応神天皇)が法師におりられこの運びとなりました。
八幡大菩薩(応神天皇)の姿も光稲荷神社の大きな石に現われています。
また、寛仁年中(1017〜1021年頃)には、疫病が流行し、
多くの死者がでました。
法師はこれを憐み17日を限り2000部の法華経を転読、3000余部
の禊(みそぎ)をよみ、その功徳あって国中の疫病が不日にやんだということです。
これが法師132〜136歳の頃のことです。
その法師も万寿2年(1025年)2月には親しき氏子に最後をみとられ丑の刻
に南へと登仙(とうせん)されたということです。
140歳という長寿でした。
すべてを神仏に帰依されました。そして、1000余年の行を経て、現在の光稲荷神
社の宮司に姿をかえられ、
今もって日々夜々に行をつまれ不思議と神仏の言葉を伝えられ、弘法大師と道をともにされている。

 


            

「今昔物語巻13第25」


今昔物語巻13第25現在語訳
周防国基灯聖人誦法花語第二十五
今は昔、周防国大島郡に基灯という聖人がおった。
若くして法華経を習い、日夜身命を惜まずし、毎日怠ることなく三十余部読誦する。140余歳になっても腰がまがらず、起居動作は軽やかで、容姿もきわめて若々しく、やっと四十そこそこの人の
ようである。
視力がしりかりしており、遠の物も良く見える。聴力もすぐれ、遠い音でもはっきり聞き取ることができる。
それで、世間の人は、「この聖人は六根清浄をえた聖人だ」と言っていた。
また、ものを哀れむ心深く、知恵がすぐれている。草木のようなものでも、これを敬う。
まして、すべてり生き物に対しては仏に対するように礼拝するというぐあいであった。老年になっても少しり病もなく、ただひとえにこの世の生死無常をいとい悲しみ、して浄土に生ま
れたいと願っていた。
これを思うと、この世において長命し病におかされることがないというりは、ひとえに法華経を読誦する功徳のいたすところである。
それゆえ、基灯聖人は死後も浄土に生まれること疑いない、とこう語り伝えているということだ。

 




            


 



山口県光市光井9丁目 光稲荷神社の場所




山口県大島郡三蒲(みがま)松尾寺(しょうびじ)の場所



光稲荷神社の移設について
写真撮影のお願いをしホームページに紹介と説明したところ、
宮司より詳しい説明をして頂いた。光稲荷神社は周防大島
に鎮座していた。そこは米軍の訓練空域で騒音が激しく、宮司が
光市に移転した。室積の大工さんにお願いしたとのである。
従って、ここで宣伝もしておらず、光市での歴史も浅く近所の方で
も知らない方が多いといわれた。
除霊等の加持祈祷を行い広島県等、県外からの方が多いといわれた。



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