冠天満宮の祭神他 |
冠天満宮 由緒沿革概要 |
江戸時代の寛保元年(1741)、光井天満宮社人海田伊予が萩藩の求めによって提出した「光井天満宮由来書」には、 平安時代の延喜元年(901)、菅公が藤原氏の謹言(ざんげん)により太宰府へ西下の途中、 光井の浦に船をとどめ立ち寄られたと言う言い伝えが、次のように書かれている。
西風強く、御通船なりがたく候によって当所へ御船をつなぎなされ、磯部にお上り四方の景色をほめさせられ候所に、 神太夫と申す者出合い、如何なるお方にて御座候やとお尋ね申し上げ候へば、我は都の者なるべし、
筑紫の配所へ赴くなりと仰せられ候について、おいたわしく存じ奉り、我が家へお供つかまつり、一間を設けて付き添い奉り、 謹みながら、おとぎなど申し上げ、御船中の御欝気(うっき)を晴し奉り、一両日も御滞留ならせられ候所に、 日和も順風に相成り候について、付添いの官人御来船ならせ候へと申し上げ候故、お立ち出でならせられ候時分、 仰せられ候は、御運目出度く御帰洛ならせられ候はば、其時またも、お立ち寄りなさるべく、
若し配所において御終りなされ候はば、お形見に見るべしと仰せられ、其時召され候お冠をお脱ぎならせられ、 神太夫につかわされ候故に、涙にむせび御申し上げ候事も相成りがたく、お冠を頂戴仕り候由、神太夫に太郎次・ 勘之介と申す両人の子御座候、此者どもへは、松本・梅本という名字を名乗るべしと仰せ置か れ、磯の方へ御出になり候故、神太夫も親子三人とも御供つかまつり、罷り出で候所にお船へお移りならせられ、 順風故に船もほどなく遥かにへだたり候故、神太夫親子も我が家に帰へり、右の御冠を箱に入れ大切に仕り、
家の宝に所持つかまつり候、其の時より両人の子与もは、松本太郎次・梅本勘之介と名乗候由、神太夫儀は、 老年にて其後相果て、松本太郎次が神太夫の家を相続仕り候由、然る所に承平4年(934)10月7日の夜、 太郎次夢に位官おぼしきお方枕にお立ちなされ、我は先年筑紫へ左遷の時立寄りし者なり、 其時に残し置き候冠をもって神体として一社を建立し、天神として敬うべしと見えて夢さめぬ、
不思議に存じ候へども、 虚夢にて御座候はんと存じ候ところに、打続き二夜右の夢を見候、然れども妻子へも話つかまつらず候所に 、三夜に相當り候夜の夢に、打続き我社のことを告ぐるといへども疑心強く心用いず、わが一門の気瑞を見すべし、 此家より東に当って山あり、その所に梅の古木あり、此宵のうちに花を開かすべし、是を見て疑心をやめ一社を建すべしと。
是によって翌日隣家の百姓中へ物語り仕り、方々を相尋ね候ところに、只今の社地に梅の古木御座候ところに、花欄漫と春のごとし、 是によっていよいよ神勅なる事を決定し、其の時分の領主内藤下野守へ御願し、右の御冠を以て神体につかまつり、 梅の木の所を社地に相定め、承平5年(935)庚子卯月23日に建立成就相成り氏神とうやまい、梅花を見候日について、 10月10日を祭日と相定め候由に御座候」戦国時代の天文18年(1579)の棟札には、「社職海田掃部の願いにより、 光井保の豪族光井兵庫助兼種が社殿を再建」とあり、その棟札の前文に「承平五年卯月廿三日午刻次造営、光井先祖代々上葺、 棟札在之」と書かれている。
江戸時代の享和2年(1802)900年祭執行、文政13年(1830)玉垣建造。
明治六年(18,7631村社となり、又菅原神社と改称し、昭和5年(1930)郷社に昇格する。
山口県神社誌 平成10年3月25日 山口県神社誌編集委員会
冠天満宮の配置図