山口県光市光井3丁目17-1 冠天満宮の紹介  2009-12-21  



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山口県光市光井3丁目17-1  
 冠天満宮の紹介   
 2009-12-21 

   冠天満宮の祭神他


鎮座地 :光市光井三丁目一七番一号
祭 神 :主祭神一菅原道真(すがわらのみちざね)、
...............菅原是善(すがわらのこれよし)、吉祥女(きっしょうじよ)
主要祭典例祭:(十月第三日曜日)、祈年祭(四月下旬)、新嘗祭(十二月上旬)
社 殿:本殿(流造10坪)、幣殿(21坪)、拝殿(19坪)
境内神社:冠石神殿(かんむりいしかみでん)
境内地:26,383坪 境外地26,383坪

山口県神社誌 平成10年3月25日 山口県神社誌編集委員会
冠天満宮 由緒沿革概要

江戸時代の寛保元年(1741)、光井天満宮社人海田伊予が萩藩の求めによって提出した「光井天満宮由来書」には、 平安時代の延喜元年(901)、菅公が藤原氏の謹言(ざんげん)により太宰府へ西下の途中、 光井の浦に船をとどめ立ち寄られたと言う言い伝えが、次のように書かれている。

西風強く、御通船なりがたく候によって当所へ御船をつなぎなされ、磯部にお上り四方の景色をほめさせられ候所に、 神太夫と申す者出合い、如何なるお方にて御座候やとお尋ね申し上げ候へば、我は都の者なるべし、
筑紫の配所へ赴くなりと仰せられ候について、おいたわしく存じ奉り、我が家へお供つかまつり、一間を設けて付き添い奉り、 謹みながら、おとぎなど申し上げ、御船中の御欝気(うっき)を晴し奉り、一両日も御滞留ならせられ候所に、 日和も順風に相成り候について、付添いの官人御来船ならせ候へと申し上げ候故、お立ち出でならせられ候時分、 仰せられ候は、御運目出度く御帰洛ならせられ候はば、其時またも、お立ち寄りなさるべく、
若し配所において御終りなされ候はば、お形見に見るべしと仰せられ、其時召され候お冠をお脱ぎならせられ、 神太夫につかわされ候故に、涙にむせび御申し上げ候事も相成りがたく、お冠を頂戴仕り候由、神太夫に太郎次・ 勘之介と申す両人の子御座候、此者どもへは、松本・梅本という名字を名乗るべしと仰せ置か れ、磯の方へ御出になり候故、神太夫も親子三人とも御供つかまつり、罷り出で候所にお船へお移りならせられ、 順風故に船もほどなく遥かにへだたり候故、神太夫親子も我が家に帰へり、右の御冠を箱に入れ大切に仕り、
家の宝に所持つかまつり候、其の時より両人の子与もは、松本太郎次・梅本勘之介と名乗候由、神太夫儀は、 老年にて其後相果て、松本太郎次が神太夫の家を相続仕り候由、然る所に承平4年(934)10月7日の夜、 太郎次夢に位官おぼしきお方枕にお立ちなされ、我は先年筑紫へ左遷の時立寄りし者なり、 其時に残し置き候冠をもって神体として一社を建立し、天神として敬うべしと見えて夢さめぬ、

不思議に存じ候へども、 虚夢にて御座候はんと存じ候ところに、打続き二夜右の夢を見候、然れども妻子へも話つかまつらず候所に 、三夜に相當り候夜の夢に、打続き我社のことを告ぐるといへども疑心強く心用いず、わが一門の気瑞を見すべし、 此家より東に当って山あり、その所に梅の古木あり、此宵のうちに花を開かすべし、是を見て疑心をやめ一社を建すべしと。

是によって翌日隣家の百姓中へ物語り仕り、方々を相尋ね候ところに、只今の社地に梅の古木御座候ところに、花欄漫と春のごとし、 是によっていよいよ神勅なる事を決定し、其の時分の領主内藤下野守へ御願し、右の御冠を以て神体につかまつり、 梅の木の所を社地に相定め、承平5年(935)庚子卯月23日に建立成就相成り氏神とうやまい、梅花を見候日について、 10月10日を祭日と相定め候由に御座候」戦国時代の天文18年(1579)の棟札には、「社職海田掃部の願いにより、 光井保の豪族光井兵庫助兼種が社殿を再建」とあり、その棟札の前文に「承平五年卯月廿三日午刻次造営、光井先祖代々上葺、 棟札在之」と書かれている。

江戸時代の享和2年(1802)900年祭執行、文政13年(1830)玉垣建造。
明治六年(18,7631村社となり、又菅原神社と改称し、昭和5年(1930)郷社に昇格する。

山口県神社誌 平成10年3月25日 山口県神社誌編集委員会

  冠天満宮の配置図




一ノ鳥居 (石造・文久3年)





道路海側より 注連柱(しめばしら:しめ縄をつける石柱)と鳥居





灯籠(宝永2年狛犬)





灯籠(宝永2年)






光市の名木 NO.46 ラクウショウ スギ科 樹高:16.3m 推定年齢 不明
二本並んで立っている。東側が大きく珍木に選ばれたとのことである。 メタセコイヤに似ているが葉がメタセコイヤより小さく互生である。 根元に膝根という高さ20cm以下のこぶ状の気根がある。



光井の地名の由米(光井の井戸 井の本)
光井の地名の由米について三つの伝説があるが、 その一つに天保12年(1841)の熊毛郡光井村風土記(風土注進案) によると、
当村往古は明光ノ里と唱えたということである.俚伝に曰く、 昔北辰妙見呈天より降り給ひたるを、則ち産土神(生まれた土地 の守護神)と崇め奉つた。
そのころ村中は人家が数無く、遠近に住居して渓水の流れを汲み芥むといえども、暑気の折などは水が 乏しい故に、里人が祈願をこめ神明の加護を祈ると、不忠誠な神 託が有りて三つの所に井戸を掘れば、水の沸くこと夥しく、それより村の名を三ツ井と改めた。

その後天満宮御鎮座の節、彼の井より夜な々々光りを発するので史に光井村と改め、今の地名の謂れ がこれである。右三つの井は、いづれも御供水にて一ケ所は井の 本(冠天満宜の参道の下)、一ヶ所は(観音堂の下)、一ヶ 所は(浴の山本家)というところにあり、皆不思議な名水である。
というようなことが記されている このように三つの井戸を掘り、その井戸が光を発するので光井 なったことが今ででも言い伝えられている。
(光市史跡探訪第2集より)





光井の井戸










鳥居光冠稲荷神社





名 水





狛 犬





浄水鉢





狛犬





社殿(本殿:10坪 幣殿:21坪 拝殿:19坪)





灯 籠

 



神 牛

 


            

神 馬


 

社 殿





拝 殿





合格祈願絵馬奉納所





冠石神殿(かんむりいしがみでん)境内神社




           


冠石の由来

延喜年(901)菅原道真公が筑紫の配所へ海路下向の折、風雨をさけて戸中の浦へ上陸された。
この時村の神太夫親子が我が家へ伴い奉り一両日お泊りの間、心からお慰めした。
官公のお悦びはひとしおで出船にあたり別れを惜しまれ、形見にと召されたる御冠を脱ぎ与えられた。
その後は夢のお告げによって承瓶年(1935)祠を建てて、官公をお祈りした。
この冠石は、その冠を納め奉った所と伝えられる。
冠天満宮社務所






光冠稲荷神社
光冠稲荷神社と冠天満宮の関係

昔から、旧光市と旧大和町の境の山に祀られた稲荷神社があった。
光稲荷神社の宮司の叔父(兼森さん)の家系が、代々神事の中心的な役割を担ってこられた。
約50年前までは、奉納相撲も行われていて多くの庶民が参拝してた。
しかし、時が経つとともに神社へ通じる道が荒れ、誰も足を運ばなくなり、神社は荒廃した。
このようなことから兼森さんは、当時の冠天満宮の宮司と相談し、荒廃した神社のご神体を 冠天満宮の冠が納められている隣に祀ることに決められた。
そして、平成10年2月4日の初午の日に光冠稲荷神社として祀られた。
冠天満宮と光冠稲荷神社の関係ホームページより







本殿





 裏参道





光市の名木
ウラジロガシ(指定番号47)
ブナ科
場所:光市光井三丁目 
   冠天満宮の北西側参道石段の下方
樹高:25m 推定年齢 300年以上

堅菓(ドングリ)が無く子苗も生えていない。
ウラジロガシは光市内では峨嵋山意外見られていない。
大きさは県下でトップクラスで樹勢も良好。
宮城・新潟県以西の本州、四国・九州・沖縄、朝鮮・台湾に分布する常緑のカシで、
名前は葉の裏が白いことに由来する。





山口県光市光井3丁目17-1 冠天満宮の場所





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