山口県光市室積室積5丁目(北町) 盥海恵比須社の紹介 2009-7-19  
..
..
..
..
..





山口県光市室積室積5丁目(北町)
盥海(みたらい)恵比須社の紹介 
 2009-7-19

恵比須信仰について

恵比須神は中世以来七福神の一つに数えられ、エビス大黒と併称されて福神の代表格とみなさ れている。
一般に恵比須は、漁業好きの事代主命ともいい、また蛭子(ひるこ)の尊だともいわれ、豊漁を 授ける神として信仰が広がってきた。
また招福の神として恵比須講には商売繁昌を願うなど、今 では漁民商人の間にひろく信奉されている
盥海(みたらい)恵比須社について

室積北町の「性空上人対面の松」の地にあり、土地の人の話によると大漁豊漁、商売繁昌、招 福の神として古来より信仰されてきたという。
今も関係者によって祀り清められている。
なお、 盥海(かんかい)とは湯水を入れて手を洗う器の意であり、御手洗湾にちなんで付けられた盥海(みたらい)小学校の 跡地である。

このほか、恵比須社には、祭が賑わう牛島の恵比須社、江の浦の恵比須社、西の浜の恵比須社、島田川辺より 移された筒井の戎社がある。
[光地方史研究第13号参照]


 室積小学校(伊保木小学校)・ 盥海(みたらい)小学校について

明治6年3月市場在住の守田英淳・河上義一が第六大区、第五小区教師命ぜられ、 翌7年3月13日、従来の家塾を半官半民的な学校として発足し、14年、早長八幡宮裏に校舎一棟を新築した。
18年、浦と村とを分離して室積村小学校および盥海(みたらい)小学校の2校を設け、伊保木小学校(明治7年開校)を伊保木分校とした。

20年、学制改革により室積小学校は室積尋常小学校となり、盥海小学校は盟海簡易小学校と改称した。
23年、室積尋常高等小学校と改め、盥海小学校は自然廃校となり、伊保木分校も25年に伊保木分教場となった。

26年、市場に校舎を移転し、36四年には尋常科と高等科を分離したが40年に義務教育が6ヶ年に延長されると同時に 高等科を尋常小学校に併置し、室積尋常小学校と改称した。ついで昭和16年に室積国民学校、22年に室積小学校と改め、 36年に伊保木小学校を統合し、36年現在地に統合校舎を新築移転し8月29日から新校舎で授業を開始した。
43年には南校舎の増築も完成して今日に及んでいる。
[光市史 昭和30年3月31発行参照]


盥海(みたらい)小学校は2階建てで、下が役場で上が小学校であった。
小学校の授業は読み書きソロバンであった。
一階の役場は戸籍の管理と、税金の徴収のみで、戸長(コチョウ)・畔頭(クロガシラ)・年寄(トシヨリ)の3役が勤務していた。
生徒には戦前の外務大臣松岡洋右がいる。2階の小学校で暴れて床が壊れた逸話が残っている。
松岡洋右は明治26年(1893)年(13歳)の時渡米し下男として働きながら勉強し、帰国後明治35年(1902)外交官試験に合格した。
[海商室積の歴史探訪会 三谷博雄氏より自宅にて]




三谷博雄氏の祖母(柳井まつ)の盥海小学校卒業証

性空上人対面の松について

普賢縁起によれば、兵庫県書写山円教寺の性空上人が生身の普 賢菩薩を見たいと祈願したところ、遊女から夢のお告げがあり、 ここ室積で漁人が海中から網で引き上げた普賢菩薩に対面した。 遊女と性空上人の物語が生まれた。

性空上人が普賢菩薩に対 面した場所を後世に伝えるため、影向の記念樹として松が植えられ 亀鉄塔の記念碑(朝鮮様式で、碑文は萩明倫館の塾頭の作)が建立してある。

碑文には、対面の松が1733年の野火で消失したため郡吏が植え 継ぎ、さらに近隣の村人がこの記念碑を建てたことが刻まれている。
[室積探訪参照]

盥海恵比須社のスナップ写真



盥海(みたらい)恵比須社




盥海(みたらい)恵比須の祠









標識


盥海(みたらい)恵比須社








道路の向こうに御手洗湾



亀鉄塔の記念碑(性空上人が普賢菩薩に対面した場所)


裏側


東側



全景

               

裏側
  



裏側


全景


性空上人対面の松の説明板


          



 


江の浦の恵比須社           


西の浜の恵比須社
 

          


牛島の恵比須神社
牛島八幡宮境内神社 (事代主命(ことしろぬしのみこと) 宝暦3年勧請
 



山口県光市室積5丁目(北町) 盥海恵比須社の場所





TOPページ






inserted by FC2 system inserted by FC2 system