山口県光市室積正木・中央 正木稲荷社と大隈稲荷社の紹介 2009-2-14  ..
..
..
..
..




山口県光市室積正木・中央
 正木稲荷社と大隈稲荷社の紹介
2009-2-14

正木稲荷社と大隈稲荷社について

寿永3年(1184年)屋島の戦に敗れた平家は、海路を西に逃れました。
平経盛の船は、室積舟戸の浦に寄りしばし休息しました。
経 盛は、船路の安全の守護神として船中に祀っていた幸徳稲荷大明 神を、この地に遷座するよう命じました。
その時、愛娘「澄姫」を 敗戦の道づれにするに忍びず、雅楽守に同道して下船を命じました。
澄姫は、この稲荷様に村の五穀豊穣を祈り、村人に慕われてこの 地で亡くなりました。 村人は「お澄様」とも呼び、祀り信仰しています。

現在は大隈稲荷社と正木稲荷社とがあります。これは江戸時代初期に 蓬莱山から正木と澄田の境界に稲荷社が移され、後に両地区の話 し合いで、御心霊を二分してそれぞれに社を建立し村の守護神とした からである。
[室積探訪



お澄さまの民話伝説


「お澄さま」は平経盛の末娘である。 寿永3年(1184)2月7日、摂津国一ノ谷の嶮に拠って激しく抗戦していた平氏の一門は・源範頼・義 経らのため一敗地にまみれ、宗盛は安徳天皇(御年七歳)奉じて讃岐の屋島へ逃れたが翌寿永4年2月 19九日、源氏の総攻撃にあってふたたび海上に浮かび、長門国壇ノ浦へ落ちのびた。

その途中のことである。 平経盛の乗った軍船は闇夜に乗じて、上ノ関からひそか室積船戸の船がかりした。その船が港に入る直前、 経盛は船上で一門の武将坂井雅楽守盛秋を呼び寄せてこういった。

「この合戦も赤間関が天下分け目の議場じゃ。そなたも承知のとおり、戦況は日を追って悪化しこのま まで行けば、わが一門は壇ノ浦で三たび手ひどくやられるやも知れぬ。もちろん今度は平家の面目にかけて も、みごと敵方をやっつける覚悟ではいるが、しかし人の運命予測しがたく、わが一族の前途もまた予断 を許さない。そこで、万一の場合を考えての頼みであるが、今日まで畏れ多くも、一天万乗の君の守護神とし て、また、わが平氏一門の守り本尊として奉戴してきた幸徳稲荷をそちの手によって、この周防国のどこか へご遷座申し上げて欲しいのじゃ。

幸いそちはは神官として長年奉仕してきた経歴もありこのことを運ぶに は最適任者だと思う。それからもう一つ、これは私事にわたることで、まことに申し憎いが、わしの末娘 の澄もいっしよに連れていって欲しいのじや。あの子にわしと運命を共にせいというのは・親として忍び難 いものがある。この苦衷を察して、万一わしに変事があった場合には、そちの子として末長く愛しんでやっ てくれまいか。」

坂井盛秋は委細を承知し、幸徳稲荷のご神体を奉じ、経盛の息女「お澄さま」の手ひいて密かに船戸へ上 陸し、暗闇のなかを何処へともなく姿を消していった。

平家はその年の3月24日、壇ノ浦の合戦で全滅したが、それから数年の後、室積の市延在に豪壮な屋敷 を構えていた地頭の武ノ下孫左衛門方の離れに二人の姿を見かけるようになった。平家の滅亡後、二人は孫左 衛門の好意に迎えられて、人気のない土蔵のなかで不自由な生活を送っていたのであったが、ようやく時勢も 、平穏をとり戻し、やっと人づき合いのできる人間の世界へたち返ったのである。

幸徳稲荷は室積西ノ庄の宝莱山頂に祭られ、「お澄さま」は坂井盛秋の息女として、村人の病気や悩みごと の相談に応じていた。幸徳稲荷には神体のほかに、一尺二寸三分の宝剣「狐丸」一振と、黄金造りの御幣二 対、それに狐小判数枚があるということも、いっか村人の間では公然の秘密のようになっていた。

そのころ澄田村の村役人に角田甚左衛門という人がいた。あるとき急ぎの用事ができて武ノ下を訪れ、裏門 からはいって行くと、離れのすぐ側の井戸端で誰か一心に水垢離をとっている。「この寒いのに」と思って、 数間離れた場所からじっと見守っていると、やがて「行」を終わって、すっくと闇のなかに立ち上がった白い 裸像に甚左衛門は「アッ!」と驚きの声を呑んだ。その裸像は夜目にも明らかに「お澄さま」だとわかり、し かも、その神々しさに真実「生身の神」を感じさせたからである。

たまたまこの年は近年にない大きな風水害 に見舞われ、麦も米も不作のうえに黄菜類までも減収で、村の人たちはみな生活に苦しんでいた。「お澄さ ま」はそうした村人を少しでも救いたいものと、毎夜々々わが身を生贄にして、ひたすら神霊の加護を祈って いたのである。

「お澄さま」はこのとき17歳、細面のすらっとした、心のやさしい美しい人であった。村の人たちの悩み ごとに対してはいつもよい相談相手になり、農耕のことにまで子細に適切な指示助言を与え、それが一つ一つ 適中するので、世間の人たちは「お澄さま」のことを「神がかり」とか「狐つき」とか、うわさし合っていた ようである。

その「お澄さま」がそれから二年後の、ちょうど稲の穂先が色づき初めた八月半ばに、突然原因 不明の病気で亡くなってしまった。その息を引きとる前、「お澄さま」は義父の坂井盛秋の両手をしっかりと 握りしめて、「わたくしの魂はいつまでもこの村里にとどまり、悩み多い人々のうえに必ず明るい仕合わせを もたらすことを誓います」と遺言した。

経盛に頼まれて、坂井盛秋が祭った幸徳稲荷は今では大隅稲荷神社と呼ばれ、そこには主神の「ウカノミタ マ」(五穀豊穣の神)といっしょに、聖女「お澄さま」の霊が祭られている。「お澄さま」のことを村では 「姫玉さま」といって崇め、その名の一字をとって部落を「澄田庄」と呼ぶようになったという。

〔備考〕現在、大隅稲荷神社は中央区に二社がある。江戸時代初期に宝莱山から正木・澄田両部落の境界へ移 されたが、のちに両部落が話し合って神霊を二つに分け、それぞれ現在地に社を建立して村の守護神とした。 昭和28(1953年)年、その一千年祭が執行された。
[光市史転記]


[注進案他]


元文2年(1737年)老狐精,村民長七に託し社地を乞い村民力を合わせて造建、社頭にて神楽を奏し吉凶を伺うとある。 また平家の守護神とも伝えられる社である。

以来同部落の鎮守の社として崇敬され、例年3月、10月の祭礼が 続いている。以前は近郷防府・岩国方面からの参詣者も多くつきに1000人を超えるといわれ、ご利益も五穀 豊穣・家業繁栄・病気平癒など幅広いとされている。



正木稲荷社(2009年)

正木稲荷社







              

           


正木稲荷社


大隈稲荷社(2009年)


大隈稲荷社



3箇所入口がある。





鳥居合計 165本






大隈稲荷社




































大隈稲荷社一千年祭 昭和28年(1953年)



昭和28年(1953)一千年祭奉納神楽の写真
大町の裏山、金山の頂上の江谷金毘羅宮で神楽が行われ、
引き続き大隈稲荷社で行われた。(古老にお聞きした)

現在残っている昭和28年一千年祭の記念品


大隈稲荷社落成(1992年)




>棟上作業中 



上棟式(早長八幡宮 宝迫主税 宮司
            

大隅稲荷社は平成4年9月に立て替えられた。
大隅稲荷社建設関係者
責任者 : 杉 勲氏
棟  梁 : 原田弘之氏
総   務 : 松村英明氏
会   計 :弘中徳治郎氏

建設基金は、故人となられました杉矢作氏・松村平治氏
の2名が、長い間室積農協に定期貯金され、平成3年4月1日
現在800万円となり、再建の準備にかかり建築許可が
平成4年2月22日にあり、施工。
建設寄進者の金額と合わせて、総工事費1,270万円          





完成神殿前



 完成大隈稲荷社正面 平成4年(1992)9月



山口県光市室積正木・中央 正木稲荷社と大隈稲荷社



大隅稲荷社の管理その他について


・神社の管理は3回/月4軒でお供えを行っている。

・年3回お払いを三井の八幡宮の宮司さんにお願いし行っている。 2月の初午、4月8日の春祭り、10月8日春祭り

・祭られているのは、姫玉さまと大隈さまである。  
本家神社について杉氏が伏見稲荷社に出向き調査したが玉姫についてはそれらしき書き物があったが、大隈については不明である。

・盗難と火難のに霊験があるとのことである。

・お参りされる方が、かつては100人程度あったが最近では20人程度に減っている。

管理されている4軒の方が高齢になり管理が難しくなっている。

 
[管理されている方からお聞きした。]



TOPページ






inserted by FC2 system inserted by FC2 system