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山口県光市室積半島 普賢堂と2月の普賢市の紹介 2009-2-14




山口県光市室積半島普賢寺
 普賢堂と2月の普賢市の紹介
2009-2-14 
■普賢堂と2月の普賢市の紹介■

毎年5月14日と15日に行われるの性空上人の命日に行われる普賢縁日、普賢祭りは盛
大な露天市が300店余り立ち盛大であり、数万人の方が訪れにぎあう。
二月の普賢市は植木市でかつては賑わっていたが、今は植木の出品される方がなくな
り檀家の方で続けておられる。
普賢寺と普賢堂は間違い易いが、普賢堂は普賢寺の伽藍である。
今回普賢堂の各種お堂その他も紹介する。

普賢寺住職にお聞きした。


●普賢寺迷い子石●
昔から、毎年5月14日15日の名物普賢市は、大変盛んであり、両日
の人出は、想像を超えるものであった。この大混雑の中で、自然迷い子
も多く出て、子探しに苦労する親の姿もみられ、これを助ける方法と
して迷い子石は設けられた。この石のそばに迷い子を集め、又
は迷い子の名を書いた紙を張り出して、番人が世話をした。
当時の普賢市の盛んな様子がうかがえる。



●普賢寺山門(仁王門)●


●木造の金剛力士像●
普賢寺の記録によると、木造の金剛力士像が安置されている
雄大な仁王門は1798年に建立されたもので、1917年に改修されてい
ます。金剛力士像は最初普賢堂に安置されていましたが、拝殿が手
狭になったため仁王門を建立し安置しました。像は向かって右側が
口を開いた阿形の密迩金剛、左側が口を閉じた吽形の那羅延金剛
ですが、仁王にしては珍しく温和な表情をしている。
楼上には仏教開祖の釈迦牟尼仏を主尊に、左に光厳童子、右に月
蓋長者を脇士にし、その両側に十六羅漢が安置されている。十六
羅漢は永く世にあって正法を護持する十六体の阿羅漢で広く信仰さ
れている。



   
           


●転法輪(経蔵)●
  転法輪(経蔵)は地方稀にみる廻転式の構造で、高さ6m、幅2mの12面
体で中に一切教5,040余巻を収めてあった。建立は不詳であるが、
古老によれば寛政年間と言われる。


  

●平判官康頼の碑●
 
普賢堂境内に平康頼の碑がある。治承元年(1177)京都鹿ヶ谷の山荘で
藤原成親、僧俊寛、平康頼らが平家打倒の謀議をこうじた事が露見し、
康頼らは遠く鬼界ヶ島に流された。
康頼は途中室積の浦に立寄り、潮松庵の活堂和尚をたずねτ出家し名
を性照と改め、一首を残した。
「つみにかく、そむきはてける世の中をとくすてざりしことぞかなしき」
康頼は後年許されτ京都に帰り、東山の小寺でさびしく半生を送った。


●普賢堂の石橋
 
天然の良港として、潮待ち風待ちの出船入船で往古繁栄をきわめた室積には、
海の菩薩で名高い峨山眉山普賢寺があり、その境内に普賢堂伽藍がある。
  石畳の続く参道上に、寛政10年(1798)に建立された重厚な山門がある。
この山門をくぐると本堂の周囲を堀割で囲い、その堀にアーチの石橋が架かっている。
この橋は、寛政元年8月、徳山の石工浜田屋平左衛門が建造したものである。
その規模は、幅8.9mの堀に、橋面にそっτ長さ9.5m、幅3m、水面から
最も高し、所で3.1mとなっている。
 


●文殊菩薩堂●

文殊菩薩は、釈迦如来の脇士として普賢菩薩と相対して左に接し、智慧を
つかさどる菩薩である。
木菩薩は、鎌倉期より普賢営内に紀られたと伝えられ、深信の人は菩薩よ
り大書を得、いっさいの罪障が消滅し、求めるところのすべてが成就する
といわれ、霊験あらたかなる菩薩として、今日まで多くの人々の信仰を集
めてきました。
大正六年当山第四十二世眉山和尚の代に普賢堂の大改修が行われた折、
開山堂へ安置され、今日に至っでいる。
この文殊菩薩堂は、平成6年2月新生仏教教団秋本日釈遷主発願により、厨子
と須弥壇を備えて建立寄進されたもので、ここに新たに文殊菩薩をお祈りしでいる。


●文殊菩薩堂の内部●



  ●子安観音菩薩堂●

普賢堂境内の子安観音菩薩は今から二百年前宝暦年間(1751〜1764)当山34世象嶽
和尚により安置された。当時名も知れぬ病がはやり幼子が次々にたおれ各家庭で
は恐怖のどん底にあえいでいた。元来子供好きな和尚は心痛めなんとかしなけれ
ばと日夜心をこめて仏前に祈り続けた。
或る夜、観世音菩薩の夢を見、境内に子安観音を刻んで安置せよとのお告げを戴
いた。早速石工に依頼した和尚は毎日出来上るまで日参し、数十日の後出来た像
を安置した。その後は善男善女の参拝者日に増し多く、香煙の絶ゆる事がない


                ●子安観音菩薩●



  普賢寺は寛弘3年(1006)創建された。普賢堂には普賢菩薩が鎮座する。普賢
菩薩は木像の漆箔で白象の背に蓮華座をしつらえその上に鎮座されている。
縁起によると、一条天皇の御代、播磨国(兵庫県)書写山の性空上人が生身の
普賢菩薩を見たいと祈願したところ、夢のお告げがあって摂津の江口の里に行
くと、そこで普賢菩薩の化身である遊女の長者に出合った。その遊女の口から
「周防なる室積の中なるみたらいに風は吹かねどもささら波立つ」の謡を聞き、
そこで周防室積の里に来て、漁人が海中より網ご引きあげた普賢菩薩に対面し
た。そしてお堂を建て本尊としてまつった。

           



●普賢堂●



●普賢菩薩像●


●開山堂●

開山堂は性空上人・薬師如来像が安置されている。
性空上人は、姓は橘氏で、性室はその諱(いみな)である.平安時代(784〜1185)
中期の僧侶で、歌人でもあった。播磨の国(兵庫県)の書写山円教寺の開山である。
延喜10年910)京都に生まれ十歳にして既に法華経を誦し、天慶8年(945)36歳の
とき比叡山で剃髪して僧侶となり天台宗を修めた。
のち、日向の国(宮崎県)に行って霧島で庵居を営み、さらに筑前の国(福岡県)の
背振山に登って修業し、康保三年(966)四方遊歴の途に上り、書写山に至って丹
教寺を創建した。
晩年播磨の国(兵庫県で)で通賓山弥勒寺を創したが、終焉の地となり、寛弘4年
(1007)に没した。享年98歳であった。
故事によると、性空上人が仏の導きによって、この室積の地で、普賢菩薩に出会
った。そして、寛弘4年80歳で没し、この他に葬られたという。



●性空上人・薬師如来像●
                        

 




ゼンザイを頂いた。




手作り品
 






ゆっくり一休み
 







 




山口県光市室積半島 普賢寺 の場所


感想
今回2度目の訪問である。参拝者は少ないが檀家の方で
続けられている。
落ち着いた気分になれ良かった。来年は皆様も是非訪れください。



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