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山口県光市室積中松原
 柿本社(人丸社)の紹介
2008-10-4

室積海岸の南端に近い、中松原自治会館北の民家そばの
石鳥居と共に鎮座している。
(屋根側面の12弁菊花紋)
『注進案』には、「室積村御立山松原 柿本社 石祠、造立時日不詳、
社伝曰往昔小児咳逆死亡甚多し、
因て人丸を奉勧請という」とある。
石祠の中には、高さ13cm程度の陶製の人丸坐像が安置されている。
屋根正面には○に柿の字、左右には不明瞭であるが「十二弁菊紋」が
彫られている。
造立時日不詳とあるが、石鳥居には「奉寄進天保2年(1831)2月」とあり、
この頃の勧請と思われる。
なお松原地区では、この柿本社をはさんで南側(前松原)に粟島社が、
北側(後松原)に塩竃社が鎮座しており、
塩竃社の石祠屋根の左右には「十六弁菊紋」がある。



柿本社の祠(人丸社である)


この社は、民家のそばに鳥居がある。



石鳥居には「奉寄進天保2年(1831)2月」と彫られている。


参道新しく整備されていた。           柿本社      


新しい灯篭             屋根正面には○に柿の字


高さ13cm程度の陶製の人丸坐像     遠くに見えるのは水無瀬島 


     十二弁菊紋            接写風化して分かりにくいので輪郭を描いた




 柿本社(人丸社)の場所




人丸大明神について
人丸(柿本人麿)神を祀る神社・叢祠(以下、「人丸社」という)は、、北海道から九州
まで広く分布し、34都道府県252社がリストアップされ、なかでも山口県に92社が数えられている。
「人丸社」が、『石見国美濃郡神社明細帳』にいう、人丸が生まれ、そして死んだとされる、
今の島根県に34社があるのは頷けるとしても、山口県がこれをはるかに上回る数で、1位になっている。
これほどの数がどのような由来で、山口県に伝わってきたのか興味をもち、これら神社・叢祠
が今も残るのか、県内全社を踏査確認がされている。
いったん途絶えてしまった伝承をつなぎ合わせようとするのは、とうてい無理な話であるが、
山口県にかくも多くある人丸社のルーツについて、考察し検証を試みた。
『防長風土注進案』、『神社明細帳』などの史料には、配祀・合祀などとして人丸神の名はあるが、
すでにその伝承の途切れている神社や廃社、消滅している叢祠も少なからずあった。
しかしその一方で、各市町村史や地方史研究会誌などの文献資料等から新たにその所在を教示された
叢祠も多くあり、近郷の郷・村社に統廃合され消滅したとされる叢祠が、今も旧地に存在し、
集落の回り講等で祭祀されている例も多く、確認できた「人丸社」総数は200社を超えるものになった。
県内の「人丸社」の大部分は島根県益田市高津の柿本神社からの勧請であった。
これは、古来より石見地方は、周防・長門との結びつきが強く、大内、毛利と続いた藩政時代に
は一つに組み込まれるなどし、往来が自由であったためであろう。特に、1500年代に楮和紙業が、
江戸後期からはたたら製鉄が藩政によって盛んになると、石見からこれら職人集団が多く招聘され
ているから、彼らによって高津の人丸信仰も一気に伝播したと思われる。
 
「ホームページ人丸社石祠の菊紋の考察による」


人丸神の効験について
「疫病除け」、「火難除け」、「眼病治癒祈願」、「五穀豊穣祈願」、「水難海上安全」と続き、
もちろん万葉の歌聖である人麻呂から、菅原道真公とならぶ「学芸の神」にもなっているが、
圧倒的に「疫病除け」に効験をもとめるものが多い。
これは享保18年(1733)に、県内全域で17万8千人を越す病餓死者を出したのをはじめ、
各地では疱瘡麻疹・コレラ・赤痢等が頻繁に流行したのを契機に、
これらの除難祈願に集落ごとに勧請したためであろう。
しかし、このような淫祠(藩の根帳に載らない社祠を淫祠といった)は、後世のたびたび発せられた
神社整理の対象になり、その多くは廃社となったが、信仰する集落ではその勧請由来をもっともらし
く創り改め、形ばかりの合祀・廃社や藪に隠すなどして、令の緩和を待ち存続を図ったのである
 
「ホームページ人丸社石祠の菊紋の考察による」


石祠の菊紋について
菊花紋は、鎌倉時代に後鳥羽上皇が個人的な持ち物や輿車などにつけられたのが始まりで、
以後天皇家の紋章として受け継がれたというから、その起淵は1200年頃となる。
明治2年に太政官布告により「16弁八重表菊花紋」を天皇紋、「14弁一重裏菊花紋」が宮家共通御紋と
して定められ、民間での使用が禁止されている。

天皇家の紋章は、花弁の中心線が垂線と重なるように描かれているが、石祠に確認した菊花紋の多くは、
垂線で区切られる形(天皇家の紋章を花弁半枚分回転させた形)に花弁がならんでいた。
これは石工が菊花紋を彫るのに、垂線・水平線を基準にして16あるいは12分割線を刻み、
花弁を形づくるという簡便法をとったのであろう。

山口県では前述したように石祠にも菊花紋が彫られており、その半数が「人丸社」と伝わる石祠であった。
人丸信仰伝承集団としては、木地屋、鋳物師、鉱山師などの、漂泊する職能集団の存在が知られているが、
このうち菊花紋に繋がるものは木地屋と鋳物師である。

平安期末から全国を巡遊し始めた職能集団(社人、芸能民、鍛冶・鋳物師、木地屋など)が、
諸国を自由に通行・交易する特権や由来を神話・皇族に求めていることは知られている。
これは大宝・天平(700〜750)年頃に、天皇や神社寺院への衣食住を調達する職人は、>
供御人、神人・供祭人、寄人など称して体制側に取り込まれ、平民の負担する年貢・公事、課役の免除と、
諸国往来自由の特権を保証されていたのであるが、鎌倉時代以降、政治の実権が天皇から武家に移ってからは、
守護・地頭が自領の権利を主張し、市津関料免除など従来の慣習が無視されるようになると、>
改めて時の為政者からの免許状を得るため、これら縁起由来も多くが創り改められた。

象鼻岬から光井川までの室積海岸線には、南から「粟島社」「柿本社」「塩竃社」「人丸社」と石祠が残っている。
光井川から島田川までの海岸線は埋め立てられ、今、武田薬品工業、新日鉄光製鉄所の工場敷地となっている。
島田の熊野神社境内にある「柿本大明神社」はもと島田川河口の鯉川(『注進案』には湊山之内胡崎とある。
現・新日鉄構内>にあったというから、柿林神社境内の不詳石祠3基も、もとこの海岸にあったが埋め立てにより
現在地へ移されたもので、ともに鋳物師縁由の範疇に入れることができる。
 
「ホームページ人丸社石祠の菊紋の考察による」



現在の管理について
自治会会員の方の一人の寄付により鳥居の修復、鳥居から祠までを御影石で舗装、新規灯篭等の設置
がされている。管理は自治会ではなく有志によりなされて来たとのことで、例祭は過去1度有志の
方で行なわれ以後は行なっていないとお聞きした。

感 想
今回身近にある小さな祠に、こんな深い歴史があることを知り驚いた。これからも身近にある小社の探訪を>
続け知りたいと思った。



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