光市室積前松原の粟島(あわしま)社の紹介  2008-7-6 ..
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山口県光市室積前松原
 粟島(あわしま)さま(松原の粟島社)の紹介
2008-9-18

以前から知りたいと思っていた。 
粟島さまの近くに住むかたより自治会長を紹介して頂いた。
訪問したところ、高校の後輩で資料があり頂いた。幸運であった。
是非残しておきたい内容であり紹介する。


粟島さま(前松原の粟島社)の由来

室積前松原の浜辺に粟島明神を祀る粟島社があり、鳥居には奉寄進敬白天保二年(1831)卯六月吉日と刻まれている。

防長風土注進案によると、「御立山松原沖浜辺に有り、御殿一間四方瓦葺、拝殿二間、一間平瓦葺、祭神 少彦名命、
社伝曰、本朝医薬の祖神也、往時悪疾流行、因之紀伊国蚊田粟嶋大明神を勧請し奉ると云う。
寛政(1789)年中再建之事」とある。これによると、鳥居の建立に先立つ三・四十年前、勧請依頼の社殿が再建されており、
かなりの古社であった思われる。

土地の古老の話によると、粟島さまは昔長者の姫様で子宮病が治らず家を出され、
長年の祈祷修行によって全治して、立ち帰り、以来以来下の病に悩む人々を助け、神に祀られたものという。
この社も昔は櫛やかんざし、人形等を供えて婦人のお参りが多く、八朔には組中が相寄り粟島祭りが行なわれたという。
今の社は昭和30年代に祠をいれて再建したもので、祭祀は8月1日、自治会にて受け継ぎ続けられている。

この粟島大明神についての、注進案記の本拠地は、紀伊の加太岬へ和歌山深海草郡加太村の加太神宮社であり、
婦人病を治す神として信仰されている。俗に淡島明神は16才の春住吉明神の后となったが、下の病のため、
うつろ舟に乗せられて堺の浜から流され、3月3日に加太岬の淡島に流れ着いたという。
以来悲願によって女人の病を治す誓いをたてたと伝えられる。またこの地方では3月節句に流す男女2体の雛は、
紀の川を経て淡島に流れ着くとされ、この神に祈願する女子は人形を奉納する風習がある。それらのおこりは,
もっぱら淡島明神がみずから夫婦の形代を作り夫婦の道を学んだという縁起によるものである。

元禄のころから、淡島願人と称して小さな神耡をたずさえながら、この神の功徳縁起を説いて諸国を巡る布教者
により信仰が広がり、西国には淡島・粟島さまを祀った社が各地にある。

光市では現在この松原の粟島社のみである。

(伝承提供 前松原 杉尾モミ子 明治37年生まれ)

[前松原自治会長に手書きの資料を頂いた。目的ホームページ]


少彦名命(スクナビコナノミコト)について

スクナビコナ(スクナヒコナとも。少彦名命,少名毘古那神、少彦名神、少御神)は、日本神話における神。
古事記では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、日本書紀では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。

体が小さくて敏捷、忍耐力に富み、大国主と協力して国土の経営にあたり、医薬・禁厭などの法を創めたという。
日本神話では、素戔鳴尊の直系の血を引く国津神の王・大国主が出雲国の美保岬にいた時、海の向こうから小さな船が
彼に近づいてきた。そこには蛾の皮を着た極めて小さな神が乗っていたという。
それがスクナビコナである。そしてそれを機にスクナビコナは大国主と兄弟の契りを結び、国津神の仲間となり、
彼らの国を助けたという。しかし国造りが終わらぬ半ばでスクナビコナは粟の茎にはじかれ、
海の彼方にあるとされる常世の国に去って行ったという。その後を引き継いだのが大国主とされる。

一説にはスクナビコナは知恵の神であり、一説にはスクナビコナは中国古代の強力な方士(幻術士)だったともいわれ、
特に医療、医薬の知識は非常に優れたものだったという。神功皇后も歌で讃えたように、醸造の神としても知られる。
別名を生根神(生根神社参照)とする説もあり、活津彦根命と関係がある様である。
淡島神や玉津島明神と同一とする説もあり、男性でなく、女性であるとする説もあり、謎が多い。

 
[出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』










この社は、昭和30年代に祠をいれて再建したものである。








鳥居には奉寄進敬白天保二年(1831)卯六月吉日


粟島社と中の祠(ほこら) 祭神:少彦名命(スクナビコナノミコト




粟島社と中の祠(ほこら) 祭神:少彦名命(スクナビコナノミコト




前松原自治会館のそばに粟島社がある。見えるのはフィッシングパーク
















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