室積前松原の浜辺に粟島明神を祀る粟島社があり、鳥居には奉寄進敬白天保二年(1831)卯六月吉日と刻まれている。
防長風土注進案によると、「御立山松原沖浜辺に有り、御殿一間四方瓦葺、拝殿二間、一間平瓦葺、祭神 少彦名命、
社伝曰、本朝医薬の祖神也、往時悪疾流行、因之紀伊国蚊田粟嶋大明神を勧請し奉ると云う。
寛政(1789)年中再建之事」とある。これによると、鳥居の建立に先立つ三・四十年前、勧請依頼の社殿が再建されており、
かなりの古社であった思われる。
土地の古老の話によると、粟島さまは昔長者の姫様で子宮病が治らず家を出され、
長年の祈祷修行によって全治して、立ち帰り、以来以来下の病に悩む人々を助け、神に祀られたものという。
この社も昔は櫛やかんざし、人形等を供えて婦人のお参りが多く、八朔には組中が相寄り粟島祭りが行なわれたという。
今の社は昭和30年代に祠をいれて再建したもので、祭祀は8月1日、自治会にて受け継ぎ続けられている。
この粟島大明神についての、注進案記の本拠地は、紀伊の加太岬へ和歌山深海草郡加太村の加太神宮社であり、
婦人病を治す神として信仰されている。俗に淡島明神は16才の春住吉明神の后となったが、下の病のため、
うつろ舟に乗せられて堺の浜から流され、3月3日に加太岬の淡島に流れ着いたという。
以来悲願によって女人の病を治す誓いをたてたと伝えられる。またこの地方では3月節句に流す男女2体の雛は、
紀の川を経て淡島に流れ着くとされ、この神に祈願する女子は人形を奉納する風習がある。それらのおこりは,
もっぱら淡島明神がみずから夫婦の形代を作り夫婦の道を学んだという縁起によるものである。
元禄のころから、淡島願人と称して小さな神耡をたずさえながら、この神の功徳縁起を説いて諸国を巡る布教者
により信仰が広がり、西国には淡島・粟島さまを祀った社が各地にある。
光市では現在この松原の粟島社のみである。
(伝承提供 前松原 杉尾モミ子 明治37年生まれ)