光市室積後松原
塩神様(松原塩竃社)塩釜社の紹介
2008-7-6
塩神様(松原塩竃社)の例祭に思いもかけず出会い撮影した。
まったくの予定外で幸運であった。
塩神様(松原塩竃社)について(上の写真 石造りの祠)
祭神は猿田彦命,塩槌爺命(シオヅチオジノミコト)
酉ノ浜に塩田が経営されていた頃・塩浜の守識神
として祭ったものである。寛永5年(1665年)室積小浜で塩田開始。
しかし、当時松原の住民は、殆ど農業者あったことからも
農神を祭ったものであろうと推定されている。
後松原自治会と早長八幡宮宮司により行なわれている。
自治会会員全員で榊奉納で終了した。
後松原自治会館のそばに塩神様がある。
塩神様(松原塩竃社)塩釜社の由来
塩釜社は、往町酉ノ浜に塩田が経営されていた頃・塩浜の守識神として祭ったものである。
藩政時代、塩の生産は・毛利三白政策の一つとして重要視されており、その生産は、当時としては室積経済の中心をなしていた。
前年(昭和58・11・29)室積塩田調査を、山口県埋蔵文化財文化課渡辺主事の協力によって実施した時、室積塩田の概括を行った
が、それによると、瀬戸内海で最も早く塩田開発を行ったのは、播州赤穂であり、寛永年間(1630年〜40年)
とされている。(讃岐を最古とする説もある)
室積では、寛永5年(1665年)江ノ浦の田原対島守が、室積半島部山寄りに、小範囲の塩田を造成した事実が認められる
(後に小浜と呼ぶ)
後に宝暦8年(1758年)約2町歩に拡張され、その後塩が良質であるとの好評を呼び、幾多の曲折を辿りながら拡充されていった。
大体何所の塩浜にも塩釜社を祭り、生産の倍増を祈願する慣わしである。
松原塩釜社は、天保13年(1842年)の室積村「風土注進案」という古文献に僅か三行程識されている。
下記に原文通りを示す。
「塩釜社 石祠 御立山 松原沖 磯辺二有
造立年号 詳ナラス
祭神一座 猿田彦,
総本社とみられる塩釜神社は、宮城県塩釜市森山に在り塩槌爺命神(シオヅチオジノミコト)(別宮) 武甕槌神:タケミカヅチノカミ(左官)経津主神:フツヌシノカミ(右官)の三神を祭り、総称して塩釜神(シオガマノカミ)という。
創建年代は不明であるが、延喜式(延喜7年(907年)に出来た神社・祭祀の記録)によると、
祭料1万束(昔は祭祀料を稲のの束でまかなった)とみえる。
松原塩神社は、生産の神(農神)といわれる猿田彦命を祭神としてしいる点が他の塩釜社と異なるが、
これは、室積村の域内に在り地方産業の核をなす農民の
気持ちも尊重されてのことと察せられる。
事実、当時松原の住民は、殆ど農業者あったことからも農神を祭ったものであろう。
規模の小さいのも、本社の末社を勧請したものではないかと、推察される。
昭和59年10月21日調査
光地方史紙研究会
中道先生外5名
光地方史紙研究会 増本忠一氏 光地方紙研究第13号には和歌山県の塩竃神社は製塩を広めた塩槌翁命が合祀されていることから勧請されたと思われると記載されている。
室積塩浜と松原塩釜社の由来
松原塩釜社は、当時西ノ浜(現在汐浜)に塩田が経営されていた頃、塩浜の守護神として祭ったものである。
場所は、現在の後松原自治会館の西側、松林の中に塩浜が展望できる位置にある。
藩政時代、塩の生産は毛利三白政策の一つとして重要視されており、当時として室積経済の中心となっていた。
昭和58年光地方史研究会が八室積塩田調査を山口県埋蔵文・化財文化課の協力によって実施し九時、室積塩田の概括が
行われた。
それによると瀬戸内海で最も早く塩田開発を行なったのは播州赤穂であり、寛政年間(1630年〜40年)とされている。
室積ではヽ(1665年)江ノの 原対島守が、室積半島行に小範囲の塩田を造した事実が認められた。
後に宝暦8年(1758年)に約2町歩に拡張され、その後塩が良質であるとの好評を呼び、幾多の曲折を辿りながら拡充されていった。
総本社とみられる塩釜神社は、宮城県塩釜市一森にあり、三神を塩釜神として祭っている。大体何所の塩浜にも塩釜社を祭り、
生産の倍増を祈願する慣わしである。
松原塩釜社は、生産の神(農神)猿田彦の命を祭神としている点が他の塩釜社と異なるも尊重されての事と察せられる。
後松原自治会では、塩田はなくなったが松原塩釜社を地域の守護神として、毎年7月第一日曜日に祭礼を行い、
地域の安全を祈願している。