寂照山 専光寺のはじまり
山口県光市室積5丁目 専光寺
寂照山 専光寺 の紹介
2007-10-4
専光寺正面
専光寺は海商通りの中程でふるさと郷土館の隣である。
創設はあきらかでないが、江戸徳川のはじめ、元和期に芸州厳島(安芸の宮島)の光明院の
以八上人の高弟、弁西が阿弥陀如来を本尊として再興した。
弁西のでた光明院はにその、一門の功績を称えてい今も宮島の中腹に質素な美しい姿をみることができる。
数百年の歳月は、お寺も栄枯盛衰の道を辿る。>専光寺も幾たびかの危機があったようで、
中でも寛政、享和期の再興事業は困難を窮めたようだ。
当時の住持、十六代の中興、底誉を助けたのが豊後屋さんを筆頭とする数百の室積の方々
でいまも庫裏の扁額に一門の功績を称えている。
さてこのような危機を乗りも栄越えつつも藩政町代は、長崎奉行など幕府の役人や萩藩の要人が宿泊する
「渉外館」(風古注進案)や「公儀御用」(仰譽覚)の寺であった模様で、また幕末の慶応年間には
幕府第二次長州征伐で活躍した第二奇兵隊が結成された寺として知られている。
開山は運誉辨西和尚、芸州巌島光明院以八上人の上足、同院2世。元和年中錫を此地に留め
「面見彼仏阿弥陀即得往生安楽刹」を感得し当寺を再興。
阿弥陀如来及び来迎二十五菩薩を安置。(慈覚大師作の伝)
歴代中興は、8世寂誉琳迪、16世底誉玄澄、22世念誉玄山至忠和尚で、それぞれ檀徒、
施主の助力により堂宇護持、並びに念仏教化に努める。
尚、幕末に当寺にて石城山第二奇兵隊誕生
その後、盛衰を経て辨西上人の登場を待ち、浄土宗の寺院として阿弥陀様をおまつりしています。
その阿弥陀様について『防長風土注進案』(下)が伝えるところでは慈覚大子(794〜864)が彫られた48躰のうち
の1躰であり、対面感得した辨西上人がこの地に錫を留め云々、とあります。
慈覚大師は、比叡山延暦寺を開いた最澄のお弟子で、延暦寺三代天台座主につかれた高僧です。
また、比叡山に学んだ法然上人は、入滅の際、慈覚大師の七条袈裟をまとって往生されたという話も伝わっています。
法然上人の私淑した慈覚大師の手による阿弥陀如来像が、長い時を経て、浄土宗専光寺に安置され、そこから更に400年が経とうとしています。
浄土宗のおしえ
浄土宗は、法然上人(ほうねんしょうにん)(法然房源空(ほうねんぼうげんくう)を宗祖と仰いでいる宗旨です。
法然上人は、今から約860年前(1133)に現在の岡山県(当時の美作(みまさか) の国)にお誕生になりました。幼少にして父を失い、
それを機会に父の教えのままに出家して京都(滋賀)の 比叡山(ひえいざん) にのぼって勉学し、
当時の仏教・学問のすべてを修した後、ただひたすらに仏に帰依(きえ) すれば必ず救われる。
すなわち 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) を口に出してとなえれば、必ず仏の救済をうけて平和な毎日を送り、
お浄土に生まれることができる、という他力のおしえをひろめられました。
当時の旧仏教の中でこの新しい教えを打ち出されただけに、いろいろな苦難がつづきました。
貴族だけの仏教を大衆のために、というこの教えは、日本中にひろまり、皇室・貴族をはじめとして、
広く一般民衆にいたるまで、このみちびきによって救われたのでした。
法然上人は、どこにいても、なにをしていても南無阿弥陀仏をとなえよ、とすすめておられます。南無阿弥陀仏と口にとなえて仕事をしなさい、
その仏の 御名(みな) のなかに生活しなさい、と教えられています。
こうした教えがひろまるにつれて、それが新しい宗教であったため、いろいろなことで迫害をうけました。
そのときでも、法然上人はこの教えだけは絶対やめませんという固い決意をあらわしておられます。
また、亡くなるときにも、わたしが死んでも墓を建てなくてもよろしい、
南無阿弥陀仏をとなえるところには必ずわたしがいるのですといって、その強い信念を示されました。
亡くなってから間もなく800年になりますが、その遺言とは反対にお寺がたくさんできたということは、
いかに法然上人の教えがわれわれ民衆と共にあって、その教えを慕わずにおられなかったか、という心のあらわれであります。
南無阿弥陀仏の仏の御名は、すぐ口に出してとなえられます。できるだけたくさん口に出してとなえるほど、
私たちは仏の願いに近づくことになるのです。
するとわたくしたちはすなおな心になり、今日の生活に必ず光がさし込んできて、活き活きとした、
そして、平和なくらしができるようになります。
それは明日の生活にもつづいて、日ぐらしの上に立派な花を咲かせてくれます。
法然上人の教えは、今生きることによろこびを感じることであります。
念仏をとなえながら、充実した日々をお過ごし下さい。
元祖法然上人 御影
寂照山 専光寺
山門
ふるさと郷土館から見た専光寺 鐘 楼
専光寺(浄土宗 )
本尊は阿弥陀如来、山号を寂照山という。
京都知恩院の末寺である.創建年は明らかでないが、元和年間(1615〜1623)に安芸国厳島光明院以八上人の弟子、運誉上人弁西
(光明院二世)によって再興された。
「防長風土注進案」によると、「往昔慈党大師入唐帰朝の後、四十八体の弥陀を彫刻し給ふ.その壱体にして元和年中、
当寺中興弁西と云ふ僧この尊像を信じ諸国経歴の節、錫をこの地に留め、即ち普賢示現の地にして華厳経説.『面見彼仏阿
弥陀即得往生安栗利』と云ふ文を感じ、終に当寺を再興して是を安置す。因って別号普賢院と云ふ」と伝えている。
中世大内氏の時代から外国の使臣や高官を接待したところで「外来館」または「官の館」といわれていた.毛利氏の時代になってからも「
渉外館」として利用されたという。
慶応元年(1865)正月、この寺を本拠として甫奇兵隊(のちの第二奇兵隊)が結成され、翌2年5月、第二奇兵隊の反乱脱走事件の判決
もこの寺で行われた.明治維新にゆかりの寺である。
平成6年3月
光市観光協会
鴟尾(しび) 屋根の稜(りょう)の部分の両端につける一種の装飾具
駐車場が整備された
本堂内部
専光寺の場所
)