錦帯橋の概要 |
日本三名橋や日本三大奇橋に数えられており、名勝に指定されている。
藩政史料には大橋と表記されることが多く、「錦帯」という美名は完成後に定着した説が有力とされている。
文書による初出は宇都宮遯庵の記述した文書内である。
5連のアーチからなるこの橋は、全長193.3メートル、幅員5.0メートルで、継手や仕口といった組木の技術によって造られている。
しかし、美しいアーチ形状は、木だけでなく、鉄(鋼)の有効活用がなされて初めて実現したものである。
杭州の西湖にある堤に架かる連なった橋からヒントを得て1673年に創建された。西湖の錦帯橋とは2004年に姉妹橋となっている。
現在そのほとりには錦帯橋友好の石碑が建立されている。
桜の名所として、吉香公園と共に日本さくら名所100選に選定されている。ウィキペディア フリー百科事典
近代以降の出来事(錦帯橋の流失他)
明治時代になり橋を管理していた岩国藩が消滅すると、1895年に地元有志による「錦帯橋保存会」が設立され、掛け替え資金の募集を行うようになる。
1922年3月、史蹟名勝天然紀念物保存法により名勝の指定を受ける。
1950年(昭和25年)9月14日、折からのキジア台風により第四橋の橋脚から崩壊し、錦帯橋はほぼ完全に流失してしまう。
276年間流されなかった錦帯橋が流失した原因としては、それまでの戦時体制下で橋の補修がおろそかになっていたことや、 前年に米軍が岩国基地滑走路を拡張した際に錦帯橋付近から大量のバラス(砂利)を採取したことで河床の落差が急に大きくなっていたことなどが指摘されてもいる。
翌1951年から復旧工事が始まり、1953年(昭和28年)に再建が完了。
1998年(平成10年)5月6日、この橋を軽トラックで渡った3人の男が逮捕された。
橋についた傷を修復するのに約220万円の費用がかかった。
2001年(平成13年)より2004年(平成16年)に26億円をかけて、約50年ぶりに橋体部分の架け替え工事が行われた。
工事は各年の晩秋から早春の、錦川の水量が減る時期に施工された。
2005年(平成17年)9月6日から翌7日にかけて九州北部・山陰沖を通過した台風14号により、第一橋の橋脚2基が流失した。
後に約4000万円かけて復旧工事が行われ今に至る。
2010年2月27日に、『美の巨人たち』に採り上げられた。『美の巨人たち』では錦帯橋のアーチ形状がカテナリーであることが紹介された。ウィキペディア フリー百科事典
昭和25年(1950)錦帯橋の流失の状況)
昭和25年(1950)9月14日、岩国地方を襲った「キジヤ台風」は激しい暴風雨を伴い、錦川の異常な増水を来し、錦帯橋を直撃した。
市民は「錦帯橋を守れ」と、六石樽に水を満たし、錦帯橋の橋上に置き、圧力で流失をくい止めようとした。
午前9時40分、3番目の橋台に亀裂が走り崩壊したため、第3、第4橋が濁流に飲み込まれた。
276年もの風雪に耐え、国宝にとの話しもあった五橋の木造アーチ橋は、多くの市民が見守る中、流失した。
地方紙には次の様な一文が掲載されてる。
『橋が流失する時、逆巻く洪水を眺め、男泣きに泣いて橋を見送った。』
錦帯橋の再建 市民にとって、象徴であり誇りでもあった錦帯橋を洪水により失ったことは、大きな悲しみであった。
しかし、そのショックから立ち直るのも早く、一週間足らずで市議会が再建声明を発表、し直ちに全市をあげた再建運動が展開された。
再建工事は流失の翌昭和26年(1951)から始まり、延べ6万9千人の労力、1億2千万余りの巨費が投じられた。
山口県岩国市錦帯橋の場所
昭和25年(1950)錦帯橋の流失の写真 |
1950年9月14日11時5分
感 想 そ の 他 |
---|
大津波による東北大震災の未曾有の災害を見て、 岩国の錦帯橋流出の写真を思い出し 紹介する。 |